青蟬通信

雲と動詞 / 吉川 宏志

2023年4月号

 斎藤茂吉の歌集を、久しぶりに全部通読した。さまざまな発見があったのだが、今回は、〈雲をどのような動詞で歌うか〉に、茂吉は強い関心を持っていた、ということを書いてみたい。
  おのづから寂しくもあるかゆふぐれて雲は大きく谿たににしづみぬ
                              『ともしび』
  春の雲かたよりゆきし昼つかたとほき真菰まこもがんしづまりぬ
                            『白桃』
 一首目は、雲が沈むという表現におもしろさがある。「陽が沈む」という表現はありふれているが、雲の場合はまず使われない。常識とは違う動詞の使い方をするからこそ、新鮮さは生じる。低く降りてきた雲を、山の上から見下ろしている場面だろう。広大な情景が目に浮かび、好きな一首である。
 二首目も「かたよりゆきし」という動詞が巧い。風に吹かれ、雲が空の一方に押し流され、晴れ間が覗いているのだろう。マコモは水草の一種。雁の姿がそこに見え隠れしている風景が美しい。
  北空に夕雲とぢてうつせみのわれにせまりこむ雪か雨かも
                           『白桃』
 この歌は「夕雲とぢて」に眼目がある。晴れ間が見えていたのだが、雲に閉ざされてしまった。ふいに暗くなった空の様子が伝わってきて、結句の「雪か雨かも」という切迫した調子が、とてもリアルに響くのである。
  山なかに雉子きぎすきて行春ゆくはるの曇のふるふ昼つかたあはれ
                          『寒雲』
 この歌も、一見さりげないけれど、大胆な表現が用いられている。曇り空が震える、ということはありえるのだろうか。風で少し揺れるように見えることはあるかもしれないが。「曇のふるふ」と歌ったことにより、巨大な生命体のような、なまなまとした感じが生じている。
  もみぢばもうつろふころか山ひだにたむろせる雲うごきそめつつ
                             『ともしび』
 「たむろする」という動詞は、もともと兵士が集まっている様子などを表すときに使うことが多く、ちょっと不穏な語感があるのだが、それを雲に対して使っているところに妙味があるのである。
 「短歌で擬人法を使うのは良くない」としばしば言われるけれども、茂吉の歌を眺めてみると、かなり擬人的な表現であっても、独特の生命力が伝わってくる歌が多い。
 歌会などで批判される擬人法は、「花が笑う」とか「雲が遊ぶ」とか、よく使われすぎて陳腐になった表現であるケースがほとんどなのである。茂吉の歌は、そういう決まりきった言い方とは異なっているので、清新な驚きをもたらすのだ。擬人法がすべて駄目だというわけではない。
 動詞とは、ちょっと大げさに言えば、世界がどのように動いているかを把握するための言葉である。たとえば「時間が過ぎる」と言うと、受け身的な姿勢になるし、「時間を使う」と言えば、積極的に活動している印象が生まれてくる。どんな動詞を使うかによって、時間のあり方も変化するのだ。
 「雲が流れる」という普通の表現だと、時間が無為なままに流れてゆく感じがするが、「雲がかたよる」「雲が屯する」といった表現が用いられると、じっと雲を見つめている時間感覚が湧き出してくる。茂吉は、動詞の使い方を意識することで、いきいきとした時間を歌の中に刻みつけようとした。
 最近出た永田淳さんの歌集『光の鱗』を読んだ。
  雨脚のふときに支えられながら雲くろぐろと盆地を覆う
 突然に降ってきた夕立なのだろう。雲が、みずからの雨脚によって「支えられ」ているという見方が大変ユニークである。やはり、この動詞の選択によって、雨雲の力強い動きがまざまざと見えてくるのである。
 動詞という観点からは外れるが、
  濃淡の淡の雲より降ると見ゆこのまばらなる大粒の雨  (同)
という歌も印象的であった。
 いつも見ている雲を、普通とは別の言葉で表現するのは、とても重要な詩歌の試みなのである。

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