青蟬通信

混沌とした世界に触れる比喩 / 吉川 宏志

2023年9月号

 先月、与謝野晶子の歌集を読み返している、と書いたのは、NHK短歌で取り上げる比喩の歌を探していたのだった。
  日ぐらしの鳴けば心にのこぎりをわれ当てらるる心地するかな
                            『火の鳥』
  麻雀マアヂヤンぱい象牙ざうげの厚さほど山のつばきの葉につもる雪
                           『冬柏亭集』
 テレビなので、インパクトがある「麻雀」の歌を紹介したのだが、「日ぐらし」の歌もおもしろい。あの蟬の声は金属的で哀切なので、「心に鋸」を当てられる感じはよく分かる。
 短歌の比喩は、日常的な世界に、異次元のものを呼び寄せる効果がある。あるいは、見慣れたものを、別の存在に感じさせる、と言ってもいいか。
 こうした意外性のある歌を、晶子は、楽しみながら、冒険するように作っていた気がする。凡庸な比喩、たとえば「血のような彼岸花」といった表現は、歌を陳腐にしてしまう。だが逆に、突飛すぎる比喩は、全く理解されないことも多い。比喩が伝わるかどうかは、それこそ麻雀みたいに、ギャンブル的なところがある。
 どういうふうに読者が感じるかが分からないからこそ、比喩の歌を作るのはおもしろい。
 NHK短歌の司会をされている尾崎世界観さんの小説『母影おもかげ』が、新潮文庫から刊行された。尾崎さんは、クリープハイプというロックバンドを率いるミュージシャンであるが、作家としても活躍されている。『母影』は芥川賞の候補にもなった。
 この小説は、小学生の少女の眼を通して、性的なマッサージ店で働いているシングルマザーの姿を描いている。まだ幼いので、母親がどんな仕事をしているのか、よく分かっていない。ただ、何か異様なことをしていることはうすうすと感じている。
 特異な設定ではあるが、子どものころ、大人が何をしているのか分からず気味悪く感じたことは、誰にでもあるのではないか。世界に対する不安や怯えや羞恥などの感覚を、『母影』は驚くほど精緻に描いていて、鮮烈な印象を受けた。忘れていた幼児期の感覚が蘇ったような気がした。
 この小説では、比喩がじつに効果的に用いられている。
 たとえば、銭湯に行って、おばあさんを見たときの、
「長くのびたおっぱいは、学校の水道のじゃ口にぶら下がった石けんみたいだ。」
もユニークだし、
「手さぐりで、トイレの右上についてるフエの形をした部品をゆっくり手前に動かした。」
にもハッとさせられた。あれは笛の形だなあ、と視覚的な鮮やかさに感嘆したのだが、ずっと前のほうに、
「それを聞いた私は、けんばんハーモニカを思いだした。そういえば、ホースの先をかんだときのあのツバのにおいがちょっと好きだ。」
という描写があるので、「フエ」がさらになまなましく感じられるのだ。
 少女は、自分には理解することができない世界を、身近な物にたとえることにより、その一部分だけでも切り取ろうとする。言わば比喩には、混沌とした世界に触れようとする意志が含まれているのではないか。
「疲れた、って言った自分の声を聞いてびっくりした。今、気持ちと言葉がつながったからだ。アオちゃんが死んでから今こうして家に帰ってくるまで、ずっと私の中にあった気持ちが、ちゃんと言葉になってしまった。」
 言葉と気持ちがつながるのは、大人になるためには必要なことだ。しかし、「ちゃんと言葉になってしまった」ことによって、失われてしまうものがある。「アオちゃん」とはハムスターの名前だが、〈ちゃんとした言葉〉では、その死に対するぐじゃぐじゃした思いも整理されてしまう。
「お母さんはトマトとレタスがはさまったむずかしそうなハンバーガーを食べてた。」
 「むずかしそうなハンバーガー」とは奇妙な表現だが、言葉をずらして用いることで、食べ物の存在感はありありと伝わってくるのである。
 比喩とは、〈ちゃんとした言葉〉を崩すことによって、現実に別の光を当てる営為であるように思われる。

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