青蟬通信

リアルさと意外性 / 吉川 宏志

2023年2月号

 一月八日に、名古屋で「子規の読者意識」という講演をした。その中で、次のようなことを話した。
「花見の雑閙ざつたうを叙するにも茶番、目かつら(注・紙のお面のこと)、桜のかんざし、言問団子こととひだんご、桜餅、きぬかつき、此等の者を力を極めて細叙してもなほ物足時、最後に、
  派出所に二人の迷子が泣いて居た。
といふ一句を加へて全面が活動する事あるべし。」

 明治三十三年に書かれた「叙事文」という文章の一節である。どのように写実的な文章を書けばいいか、というテーマについて、正岡子規は具体的に分かりやすく語っている。
 お茶や紙のお面、桜餅のように、よく目にする物を並べて書いても、花見の様子がリアルに伝わらないときがある。そんな時はどうすればいいか。最後に「派出所に二人の迷子が泣いて居た」と書くと、場面が生き生きとしてくるんだと子規は述べているのである。
 これは非常におもしろい指摘だと思う。花見と言えば、団子や桜餅などは誰もがすぐにイメージする。ところが、迷子が二人いたと書かれると、ちょっと意外な印象を受ける。
 たくさんの花見客が訪れて、ごった返しているから、二人も迷子になったんだな、とすぐに納得できるのだけれど。
 読者が予想していたものと違うものが入ることによって、かえって情景がリアルに見えてくる。そんな人間の心理を、子規が鋭敏に摑んでいたことに驚かされる。
 もちろん意外なだけでは駄目で、たとえば、「桜の下を伊藤博文が歩いていた。」とか書いたら嘘臭くなってしまう。確かにそういうこともあり得るだろうな、と読者に思わせる説得力が必要なのだ。
 順調に物事が進んでいるときほど、私たちの注意力は薄れやすい。だがトラブルが発生すると、感覚は強く働きはじめる。たとえば旅行中に列車が動かなくなってしまったときの状況などは、くっきりと記憶に残ることが多い。思いがけないことが起きたとき、かえって生きている実感は呼び覚まされるのである。
 文学の表現でも同じで、自分の想像と異なるものが描かれると、むしろリアルに感じる心的傾向を、人間は持っているのではないだろうか。
  野分して塀倒れたる裏の家に若き女の朝餉する見ゆ
  両国の橋の橋板板をふるみ節あらはれて車こけんとす

 『竹乃里歌』に収録されている、明治三十一年の子規の歌である。どちらも意外なことが歌われ、思わず笑ってしまう。そして、今から百二十年以上も前の情景なのに、ありありと目に浮かんでくる感じがする。二首目の「車」は人力車であろう。木の橋板が摩耗し、節目が出てきて、車輪が引っかかって転ぶ様子を、子規は目撃したのかもしれない。「車こけんとす」という字余りの結句がなんとも言えずおもしろい。
 子規が提唱した〈写実〉は、おそらくこうしたことに繋がっているのだろう。つまり、自分が想像できることを歌で表現しているだけだと、しだいに歌の意外性は弱まってしまう。だが、外の世界に目を向ければ、自分が考えもしなかった驚きに満ちあふれている。それを描くことにより、自分と外界のあいだに通路を作り出す。それが〈写実〉の意味だったのだ。後の時代には、「事実以外を歌ってはならない」といった硬直した考えが生まれてくるが、それは決して〈写実〉の本質ではなかった。
  おしあけて窓の外面をながむれば空とぶ鳥も後ずさりせり
 明治十八年の歌。汽車に乗っている場面だろう。飛ぶ鳥が汽車に追いつけず、後ろに下がるように見えた。それを「後ずさりせり」と捉えた表現から、みずみずしい驚きが伝わってくる。このころの子規はまだ〈写実〉を論として考えていなかったけれども、外界に存在する新鮮なものを捉えようとする眼差しは、すでに生まれていた。
 驚きの感情が私たちに響いてくるからこそ、子規の歌は、今もリアルさを失っていないのではないか。

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