『福田村事件』と「砂けぶり 二」 / 吉川 宏志
2023年10月号
映画『福田村事件』を観た。関東大震災の直後、井戸に毒を入れたという噂が流れ、多くの朝鮮の人々が虐殺された(当時は朝鮮を併合していたので、日本で生活している人も多かったのである)。ふだんから朝鮮の人々を差別していたため、いつか報復されるのではないか、という恐怖心が日本人の中に巣食っていた。多くの人々が自衛のためだと信じて、虐殺に加担してしまった。
この映画は、ある村にやってきた四国の薬売りの行商人たちが、朝鮮の人々と誤認されて殺害された事件を描いている。九人の被害者の中には、幼児や妊婦も含まれていた。
朝鮮人差別以外にも、部落差別、女性差別、ハンセン病差別、軍人による一般人への侮蔑、村の階層で生じる劣等感などがあった。それらが複雑に絡み合い、集団的な狂気が発生する様子を、説得力のある演出で描いている。村の川の風景はそれでも静かで美しく、人間の残酷さや愚かさがかえって強く印象づけられる。現在、最も観るべき映画だと思う。
折口信夫(釈迢空)も、同じような体験をしている。太平洋戦争の後、岡野弘彦が折口の語りを筆記した「自歌自註」に、次のような一節がある。
「大正十二年の地震の時、九月四日の夕方こゝ(注・東京の増上寺の山門)を通つて、私は下谷・根津の方へむかつた。自警団と称する団体の人々が、刀を抜きそばめて私をとり囲んだ。その表情を忘れない。戦争の時にも思ひ出した。戦争の後にも思ひ出した。平らかな生を楽しむ国びとだと思つてゐたが、一旦事があると、あんなにすさみ切つてしまふ。」
折口は沖縄を一か月以上旅した帰りだったので、風貌が異国人的に見えたのだろうか。
いつもは穏やかな民衆が、非常時には攻撃性をむき出しにする。民とは何なのか――民俗学を探求した折口にとって、思想を根底から揺るがされるような体験だったはずである。
折口は「砂けぶり 二」という詩を残している。現在は、角川ソフィア文庫の『釈迢空全歌集』で読むことができる。かなり難解だが、非常におぞましいものが伝わってくる詩である。部分的になるが引用したい。
「両国の上で、水の色を見よう。
せめてもの やすらひに―。
身にしむ水の色だ。
死骸よ。この間、浮き出さずに居れ」
両国駅付近では三万五千人もの焼死者が出たという。隅田川に飛び込み溺死した人も多かった。だが、遺体は片付けられ、秋の水面が見えるようになっていた。それを眺めつつ、生き残った自分のことをぼんやり考えている。そんな場面だろう。
「横浜からあるいて 来ました。
疲れきつたからだです―。
そんなに おどろかさないでください。
朝鮮人になつちまひたい 気がします」
折口は横浜港から東京に向かう途中で、自警団に尋問された。繰り返し厳しく問い詰められるうちに、自分が朝鮮人のような気持ちになってしまったのだろう。無実の人が強引な取り調べを受けて、虚偽の自白をすることがあるが、それに近い心理状態だったのではないか。
「井戸のなかへ
毒を入れてまはると言ふ人々―。
われわれを叱つて下さる
神々のつかはしめ だらう」
ここは特に難しい。日本人を戒めるため、神々が虐殺を煽動する人々を送り込んだと言うのか。納得しづらい言葉だ。民衆がこれほどの悪に染まるとは信じられず、神々のしわざだと思うしかなかったのだろうか。
「おん身らは 誰をころしたと思ふ。
かの尊い 御名
おそろしい呪文だ。
万歳 ばんざあい」
「御名」とは天皇であろう。「天皇陛下万歳」という「呪文」のもとに、自分たちの仲間以外を殺戮する。それは、昭和期の戦争においても何度も繰り返された。「ばんざあい」という響きがなまなましく恐ろしい。
民衆は、自分たちとは異なる存在と見なした人々に対して、信じられぬほど残酷になることがある。折口の詩は、震災から百年経った今も、私たちをおびえさせる力を持っている。