葵祭と、それをめぐる歌 / 吉川 宏志
2023年6月号
葵祭を二十年ぶりくらいに見に行った。京都に住んでいるのに、会社に勤めていたころは、休んで見物に行くのは難しかった(五月は会社の繁忙期だった)。この数年はコロナ禍で中止になっていたので、今年こそは見たいと思っていたのである。
藤の花を垂らした牛車。桜や水仙、アヤメなどの花傘を差しかけてもらいながら歩く女房たち。白馬に乗った武人。さまざまな色彩が初夏の大路を通ってゆく。
虎や豹などの毛皮をかかげて歩いている男も見かけた。平安時代の貴族も、冬に毛皮を使っていたようだが、日本にいない動物のそれは大陸から輸入するしかない。非常に貴重な品だったようである。毛皮を見せびらかすようにして歩くのは、財力を誇る意味があったらしい。
そういえば『源氏物語』の「末摘花」の帖に、鼻の赤いことをからかわれる姫君が、
「表着
と描かれている部分がある。なるほど、こんな毛皮をまとっていたのだなと納得したのだった。
藤原長能
『長能集』にはこんなエピソードが書かれている。賀茂祭(葵祭)のとき、長能は、身分の低い恋人を連れて来ていた。すると、友人の能正
そのかみのなかよしとただ知りぬれば人の数ともおもほえぬかな
という歌を送られた。「昔からの仲良しである長能が、人の数にも入らないような身分の低い女性を連れているとは思わなかったなあ」という意味である。
「仲良し」に「長能
それに対して長能は次のように返歌する。
ことわりやしか憂
「君の言うとおりだ。確かに、私はつらい身だ。そうではあるが、君がまあ優っているだろうという女性とは誰のことだ」という意味。こちらも「よし優る」「能正
つまらない見栄の張り合いをしていたものだが、身分社会というのは、ライバルと些細なことでも競い合わずにはいられない空気を生み出してしまうのかもしれない。ただ、「しか憂き身なり」(そう、私は不幸だよ)という自嘲的な表現から、長能の気弱な性格が感じられる。この人は、自分の歌の評価を気にしすぎて、衰弱して死んだとも言われている。
葵祭の歌でもう一つ思い出されるのは、木下利玄
行列の通るま近
馬も額に葵葉を付けられ居り
まなかひの葵
花傘をはこべる人は力
大正七年(一九一八年)に詠まれた歌。ほぼ百年前の光景が描かれているわけである。一首目は行列が来る前、無人になった道路が陽に照らされる場面を歌っている。今でも待ち時間はこんな感じだ。利玄の歌は「じりじり」「こぽこぽ」「ゆさゆさ」などのオノマトペが多く、やや幼い印象を与えるのだが、それでも祭の様子が臨場感豊かに伝わってくる。花傘は重いので、祭の後半になると、疲れて大きく揺れ動いたのだろう。
利玄の歌を読むと、馬の顔にも葵の葉が付けられていたようである。しかし、今年見た限りでは、葉を飾っている馬はいなかった(人は皆、頭に葵の葉を挿している)。百年前とは、微妙に変化しているのだろうか。