青蟬通信

自分を外側から見る眼 / 吉川 宏志

2022年8月号

 岡井隆の遺歌集『あばな』が出た。タイトルは、最後に作られた歌から取られている。
  死がうしろ姿でそこにゐるむかう向きだつてことうしろ姿だ
  ああこんなことつてあるか死はこちらむいててほしい阿婆世あばなといへど

 「あばな」とは岐阜あたりの方言で「さようなら」の意味らしく、印象的な一語である。岡井が幼少期に使っていた可能性もあるとのこと。
 それにしても不思議な歌だ。ずっと〈死〉はこちらを向いていたのに、命が終わる直前にむこう向きになってしまった、という奇妙な感覚を必死に伝えようとしている感じがする。
 その少し前に作られた、
  死のむかふ側には暗い青空が無数の傷を産んでかがやく
はとても美しく、〈死〉を詩的な対象として見ている。ところが最後の歌では、冷静さが失われ、〈死〉を見失った焦りがなまなましい。
 元気なうちはむしろ、〈死〉と強く対峙している手ごたえがある。しかし、心身が衰えてきて、〈死〉にさえ見離されたような感覚を抱いたのかもしれない。もちろん今の私には、岡井が言おうとしたことは理解できない。だが、〈死〉からも見捨てられたとき、ほんとうの終わりが来るという表現には、ぞっとさせられる。ぎりぎりまで生への執念を持ち続け、〈死〉とは何かを見届けようとした、岡井にしか歌えなかった凄惨な辞世の歌であると思う。
 『あばな』では、重病を告げられたときの歌にも、強い切迫感がある。
  昨日午後主治医の告げし診断が王権わうけんのやうにわれを支配す
  ヘマトクリット激減げきげんを告げられて声失ひぬもと内科医われ

 「ヘマトクリット値」とは血液中の赤血球の体積の割合を示す数値らしい。岡井はかつて内科医だったので、激減していることの危険性が、一般人とは違い、よく理解できたのである。これから自分がどうなるか不安になり、何も手につかなくなってしまう。その状態を「王権のやうにわれを支配す」という比喩で歌ったところが、とてもおもしろい――おもしろい、というと語弊があるかもしれないが、表現が魅力的なのである。
 「ヘマトクリット値」というカタカナの医学用語を選んだところにも工夫があったはずで、この語の響きが、独自の味わいを生み出している。
  黒きくだゆつくりと這ふスネークの、いま食道をすすめるが見ゆ
  胃体部たいぶ出血斑しゆつけつはんを見いでたるスネークはじつと見てゐるところ

 これらは胃カメラの検査を受けている場面。胃カメラを蛇にたとえるのは先例はあるだろうけれど、リズムが引き締まっていて、リアルな不気味さが伝わってくる。表現に凝ることで、単なる体験にとどまらず、異世界のようなものが描き出されているように感じるのである。
 そんな表現は、自分を外側から見る眼がないと生まれてこない。自分の主観だけで歌っていたら、〈もっと別のおもしろい表現はないか〉と考える余裕はなくなってしまう。岡井は、どんなに苦しい状態でも、読者からどう見えるか、という外からのまなざしを鋭く感知しているところがあった。それは演技的ということでもあって、やや嫌味になっている歌があることは否定できない。しかし、現実に生きている自分を、別の自分が見ているという構造が、岡井の歌に複雑な奥行きを作り出していたことは確かであろう。
 よく「人生を歌う」「人生を歌わない」という二者択一的な議論が起きることがある。注意しないと大雑把になりやすい話題だと、私はいつも感じている。人生を歌っていても、自分を客観的に見る眼が存在している場合と、それが弱い場合とでは、歌の印象は大きく変わる。また、自分の人生を比喩的に表現するか否か、という違いなどもあるだろう。
 「人生を歌う」と言ってもさまざまなレベルがあるのだということを、他者の歌を読むときには忘れてはならないと思うのである。
  人生つて闘争でせう、仇敵との。さう言ひながらわれは微笑む
 どこまで本心なのか、よく分からない歌で、それがおもしろい。

ページトップへ