青蟬通信

小林幸子『日暈』を読む / 吉川 宏志

2024年2月号

 体調不良のため、選者を退任することになった小林幸子さんの新しい歌集『日暈』が刊行された。心に残った歌をいくつか紹介していきたい。
  水別みわかれといふ吉備のひと 吉野では水分みまくりといふ佐久は水分みなわけ
 分水嶺など、水の流れが分かれるところは、昔からさまざまな言葉で呼ばれてきた。「みわかれ」「みくまり」「みなわけ」というたおやかな言葉や、古い地名の響きが印象深い。
  夕闇に丘のかたちをなぞりたり古墳の口がまだ暮れのこる
 夕闇の中に、古墳の丘の稜線がかすかに見えているのだろう。入口あたりがぼんやりと白く浮き上がっている。静かな美しさのある情景だ。
  川こえて倒れたる樹のよろこびは月光の夜にけものを渡す
 川に樹が倒れて橋のようになり、夜には獣が行き来するだろうと想像している。ストレートな擬人化であるが、傷ついた樹も獣が通ることを喜んでいるのではないか、という発想に、絵本のような味わいがある。
  公園のつつじのはなの生垣をあるくすずめはときどき沈む
 よく見かける場面だが、「沈む」という動詞がいい。雀がふっと消える感じがよく出ているし、「沈む」は水を連想させるから、生垣が液化したような不思議さも生じてくる。
  秘仏なる白鳳仏の胸のへにちさき影あり印むすぶ手の
 仏像の胸に、手の影が映っているという細やかな発見を詠む。小さいものに注目することで、仏像全体のイメージも見えてくる感じがするのが、短歌のおもしろいところ。「手の」と「の」で終わる結句もいい。
  首すぢより尻尾の先まで貫けるひとすぢの骨しろじろとして
 飼っていた猫を火葬したときの歌。心情を入れず、細長い骨の様子だけを冷静に歌っている。そこから、今まで心を慰められてきた猫の生命が、全く失われてしまった無惨さがありありと伝わってくる。「流星雨のやうに襖にのこりたりとほくへゆきたい猫のつめあと」という歌もある。
  山の雨とほりすぎればお日さまを連れ出しにゆく白鷺が飛ぶ
 「お日さまを連れ出しにゆく」が童話のような表現で、新鮮なかわいらしさがある。「擬人法は駄目だ」と乱暴なことを言う人がいるけれども、発想に独自性のある歌もあるので、一概に否定すべきではない。
  青空がなづきのなかに入りきてあらあらなにをしてゐるわたし
 河野裕子さんの「あをぞらがぞろぞろ身体に入り来てそら見ろ家中いえぢゆうあをぞらだらけ」(『母系』)の影響はあるだろうが、こちらは意識がふっと飛んでしまって、自分が何をしていたのか分からなくなった混乱状態を表現している。下の句の口語の調子がユニークだが、やはり自己の老いへの不安感は含まれているように思われる。「なにものになりゆくわれかこれの世を忘るるなかれいましばらくを」という歌もあり、記憶を失う怖さが強く表れている。
  橡のはな数へゐるとき風がふき天辺からまたかぞへなほせり
 何でもないことを歌っているが、やわらかな言葉の流れが快く、とても好きな一首である。「とちのはな」が五月ごろ、高い樹の上で円錐形に群がっているのをよく見かける。花を知っている人には、この感じはよく分かるのではないか。
  線香に火を移しゐる夫の背に日傘をさしかけながらみる海
 これも何げない情景を描いているが、明るい寂しさが感じられる歌である。時間が経って、亡くなった悲しみは薄れているけれども、墓の近くの海を見ると、思い出が蘇ってくる。そんな時間がこの一首から伝わってくるように思うのである。
  一歩づつ歩をはこびたりゆふやみの金木犀の香をうごかして
 歌集の終わり近くには、転倒して身体を痛めたあとに、歩く練習をしている歌もあった。小林さんには旅の歌が多く、この歌集でもさまざまな地を訪問している。歩くことを大事にしている人なのである。一時的にでも歩けなくなったことは、大きなショックだったのだろう。小林さんはいつも明るくお元気そうだが、心身の衰えの不安を抱えられていたことに、あらためて気づかされた。

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