青蟬通信

当時の批評を読み直す必要性 / 吉川 宏志

2024年3月号

 「短歌研究」二〇二四年一月号の座談会「すべての言葉の表現者のためのジェンダー表現」で、黒木三千代の
   レイプといふ言葉を使つたことで酷評を受けた
  女ゆゑ放恣の声と聞こえしかニュートラルなはずの言葉が
   別の人に
  レイプされたかつたんだらうと言はれたり かもしれないがあなたにではない
                      (「短歌研究」二〇二三年四月号)
などの歌が引用されている。これは、
  侵攻はレイプに似つつ八月の涸谷ワジ越えてきし砂にまみるる
                        『クウェート』(一九九四年)
という歌を、三十年前に詠んだときのことを回想している歌である。
 座談会に出席している澤村斉美は、
「当時、作品に『レイプ』という言葉を使ったことに対して、女のくせにこんな言葉を使ってという批評がすごくあったそうです。なんでそんなはしたない言葉を使うんだと。そもそも『レイプ』をはしたないとすること自体が疑問ですけれども」
と発言している。これを受け、「歌壇」三月号の時評で、桑原憂太郎は、
「筆者に言わせれば、これは、性差の問題ではなく、作品に対する『読み』の未熟さによるものだ。澤村は、批評と言っているが、こんなものは、今の時代、批評以前といってよい。」
と述べている。
 黒木がさまざまな中傷を浴びたのは事実であろう。そこに当時の歌壇の性差別意識が存在していたことは否定できない。
 だが、心無い非難ばかりだったのか、といえば、そういうことでもなかった。『クウェート』には、高野公彦の解説が載せられている。高野は「砂にまみるる」の主語が明示されていないことを指摘し、「レイプされて『砂にまみるる』のは、クウェート人民であると同時に我である」と述べる。そして、
「……黒木三千代は〈自他の差異〉を拭ひ去つてしまふ。社会への関心の強さと、主語の曖昧さは、黒木三千代の内部で通底してゐるのだらう。極端にいへば、彼女の歌の主語は、私、あなた、あの人、そのいづれでもなく、いづれでもある、といふやうな様相を呈してゐる。いはば、〈我〉の稀薄化、あるいは、遍在する〈我〉の発見。」
と書いている。〈自他の境界の曖昧さ〉とは、現在でも批評によく使われるキーワードであり、この頃に使われ出したのかと再認識したのであるが、重要なテーマが論じられていることは確かである。
 『クウェート』に対する、最も厳しく本格的な批判は、山田富士郎の『短歌と自由』(一九九七年)に収録された「湾岸戦争と短歌」であったと思われる。詳述する余裕はないが、
  かぎろひの夕刊紙にはをす性のまが々としてサダム・フセイン
を山田は引き、
「イラク=強者=男の独裁者=兇々しい雄、という等式の上に立って、戦争を始める『雄』というものへの怒りや困惑を語っているのである。」
と分析する。しかし、イギリスの女性首相のサッチャーが、アルゼンチンとのフォークランド紛争(一九八二年)を引き起こした例を挙げ、政治を〈性〉という図式で把握することに、山田は疑問を呈するのである。
 サッチャーは数少ない例外であり、男性社会が戦争を引き起こしているのではないか、という感覚(これ自体は自然なものだろう)を否定することは難しい。ただ、戦争を〈性〉という比喩で描くのは有効か、という山田の批評は、忘却することのできない視点であるように感じられる。
 『クウェート』への批判が、「レイプ」という言葉の問題だけだったような印象がもし作られてしまったら、私は残念だと思う。やはり、当時に書かれた上質な批評を読み直すという作業が必要なのではないか。
 今でも、ウクライナ侵攻やガザ侵攻をレトリック的に歌うことに対して、激しい反発が出ることがある。多くの人々が死んでいる状況を、比喩を駆使して歌うことは許されるのか、という倫理的な違和感が生じやすいのだ。『クウェート』は、そうした非常に難しい問題を、今から三十年前に突きつけた歌集でもあった。

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