青蟬通信

花の名前と、偶然について / 吉川 宏志

2023年5月号

 四月から「NHK短歌」に出演することになった。番組の中心になるのは、投稿された歌の中から九首を選んで批評するコーナーである。第一回のテーマは「春の草」で、二千数百首の歌が集まった。その中に、
  ヒメウズの名を教えくれし先生の逝きてのち春の歌に詠みつぐ
                              前田かほり
という歌があり、迷わず九首の中に選んだ。ヒメウズ(姫烏頭)は春に小さな白い花(ほんとうはがくだという)をつける野草。亡くなった後も、草花が好きだった先生の思いを受け継いでいこうとする意志が伝わってきて、心に沁みる歌である。ヒメウズの花を見るたび、先生と野を歩いた日が思い出されるのだろう。
 番組のスタッフの方が、作者に電話で連絡したところ、じつはこの「先生」は河野裕子さんのことだと語られたという。河野さんのカルチャーに通っていた方らしい。そのことを番組の中で触れることはなかったが、非常に驚かされる出来事であった。テレビの撮影には不安が多かったのだが、なんとなく、河野さんに見守られているのではないか、という気分になった。
 永田紅さんの新しい歌集『いま二センチ』を読んでいると、
  産む前夜大き蜻蛉が部屋に来て壁にしばらくありしを言えり
という歌があった。出産の後、家族の誰かが話してくれたのだろう。河野さんが「大き蜻蛉」になって見守りに来ているように感じていることが、何も書かれていないけれど、ありありと分かるのである。
 もちろんそれは小さな偶然にすぎない。しかし私たちの心の中には、偶然を死者からのメッセージのように感じてしまう部分がある。そして、その偶然を生み出す力が強い人は、確かに存在しているように思われるのである。
 そういえば、去年の九月の法然院の河野裕子・永田和宏歌碑の除幕式のとき、直前まで雨が降っていたのに、式が始まるころには空に晴れ間があらわれたのだった。そして、寺の講堂に移動して、講演が始まると、また大雨が降り出した。だが、講演が終わって皆が帰ろうとするころ、ぴたりと雨が止んだのである。
 接近していた台風がもたらした偶然なのだが、河野さんが来ていたのではないか、と言い合ったことをよく憶えている。
 『いま二センチ』には次のような歌もあった。
  日常も旅も大切 バルビゾンの庭に桜草見ていし母よ
 バルビゾンはフランスの村の名前。「落穂拾い」で有名なミレーなどの画家たちが移住し、美しい田園風景を描いた絵を残した。彼らは「バルビゾン派」と呼ばれている。
 ミレーの家が残っているそうで、おそらくそこを訪れたときの場面なのだろう。多くの人は、そこに展示されている珍しいものに目を奪われる。しかし河野さんは、日本でもよく目にする桜草をじっと見つめていたのである。「日常も旅も大切」という表現から、旅先でも、普段と変わらないまなざしを持ち続けた河野さんの姿が浮かんでくる。
 三十年くらい前、土屋文明の『新編 短歌入門』を読んだ。
  朝毎に見る茱萸ぐみの花のさびしきを語らむとして忘れ過しつ
という作者名のない歌について、文明が次のように書いていたことが、今でも強く記憶に残っている。
「茱萸の花のさびしい様子を注意するというのも、すでにこの作者の心持ちの細かさを知ることができるので、あの見栄みばえのない花に引きつけられるというのはそれだけで好い感じだと思います。」
 人目につかない花を見たことを歌うだけでも、何か伝わっていくものがある。ただ、読者の側も、その花が咲いている様子を知らなければ、その感覚は理解できない。だから、花をよく見て、花の名前をおぼえよう、というのが文明の考えであった。
 河野さんは花の名をよく人に教えていたが、そこには文明と相通あいつうじる思いがあったのだろう。花によって人の心は繋がってゆく。花の名前を知ることは、自分の世界が少し広がるということなのである。

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