青蟬通信

微妙な歌の変化を読む / 吉川 宏志

2022年11月号

 河野裕子記念シンポジウムの花山多佳子さんの講演「河野裕子の読み」が大変おもしろかった。『斎藤史』(本阿弥書店)の鑑賞文を中心に、河野裕子の歌の読み方を探っていく試みである。たとえば、
  山坂を髪乱れつつ来しからにわれも信濃の願人ぐわんにんの姥
                          斎藤史『ひたくれなゐ』
は、多くの人が取りあげる歌だが、「私は少しもいいとは思わない。意図が見えすぎて、おどろおどろし過ぎるのだ。」と河野は厳しく批判する。そして、同じ一連にある、
  冬ちかき光を溜めてゐる草生石は古りつつなほ土ならず
を、「上の句におちついた描写力を見せる。下の句の、やや観念的な表現も、上の句によって、しっくりと所を得ている。」と高く評価するのである。
 有名な歌であっても、自分が納得できなければ、頑として認めない。そして自分の目で、良いと思う歌を発見する。これはとても大切なことだ。河野さんは歌会でも、同じようなことを何度も言っていた気がする。歌会では派手な歌、目立つ歌が衆目を集めやすいが、見逃されやすい静かな歌や渋い歌の良さをいつも語ろうとしていた。
 斎藤史の歌は、修那羅しゅなら峠を詠んだもので、八百体以上の石仏が置かれているそうである。「願人」とは「祈願する人」という意味で、石仏を作った一人一人を指していると考えられる。〈私〉も、過去の人々と同じように、激しく祈る思いを抱えて信濃の地で生き、老いてしまった――そんな思いを汲み取るべき歌なのだろう。
 河野の批判はよく分かるが、「少しもいいとは思わない」とまでは言えない。そんな地点に、今の私は立っている。
 歌集を読むとき、作者の特徴が強く出ている歌や力のこもった歌よりも、さりげない作品のほうに深い味わいが感じられる、ということはよくあるものだ。
 しかし、読み直してみると、強い光を放つ歌のそばにあるからこそ、淡々とした歌にしみじみとした美しさを感じていた、ということも多い。華やかな歌があるからこそ、地味な歌が生きてくる。短歌は、そうした相互の照らし合いによって、生命を帯びる詩型なのかもしれない。
 花山さんの講演でもう一点おもしろかったのは、同じ歌人の作品を読み続けて「微妙な変化、または変化の兆しを読み取ること」が重要だ、という河野の発言を掬い上げていたことである(一九八七年「歌壇」十二月号「変わる苦しみ変われない苦しみ」)。
 歌集から作者の人生を読むことについて、賛否両論が出ることがあるが、〈時間に沿って、歌がどのように変化していくか〉というふうに捉え直すほうが、ずっと良いだろう。「人生」という言葉にこだわると、情緒の面が強くなりやすい。そうではなく、具体的な作品に基づきながら、作者の言葉のあり方がどのように変化してきたのかを、こまやかに読んでいくことが大事なのだ。なるほど、その通りだなと、深く納得する。
 現在の短歌の世界は、いま目の前にある歌だけを見てしまい、過去の歌から微妙に移り変わってきた様子をあまり読もうとしない。話題が次々に消費され、一人の歌人の成長にじっくりと向き合えなくなっているのではないか。河野の言葉は、現在さらに重みを増していると思う。
 小池光の新歌集『サーベルと燕』が出た。
  氷結の川ひとたびも見しことなし七十年をたちまち生きて
  籠のカナリア逃してしまひしその日より六十余年がひらりと過ぎつ
  純喫茶「エスポワール」に涼みし日よりけむりのごとく五十年消ゆ

 この歌集の特徴として、時間があっという間に過ぎたという感慨を繰り返し歌っていることが挙げられる。さまざまに表現を変えつつ、時間が消える儚さを歌おうとしている。
 以前の小池であれば、似たような発想が一冊の中に幾つもあることを避けようとしたであろう。しかしそれを隠そうとしなくなったところに、切実さと、そして老いを感じてしまうのである。

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