青蟬通信

歌の撰びについて / 吉川 宏志

2025年2月号

 小川剛生の『「和歌所」の鎌倉時代』(NHK出版)を読んだ。「新古今和歌集」を初めとして、九つの勅撰和歌集が鎌倉時代に編まれている。どのように歌が撰ばれたのかが詳説されていて大変面白かった。
「『撰』とは、『選』と同義であるが、自分の好むところを集めて何かを主張する、という義がより重要である。(中略)『撰ぶ』ことは『詠む』『作る』ことと同義であったとしてさしつかえない。」
とは、現代も同じであろう。
 鎌倉時代には、和歌を詠む武士が増えてくる。平安時代には、勅撰集に歌が入るのは、位の高い貴族や宮廷歌人、そして女房が中心であった。身分が低い場合は、出家して僧になるか、「よみ人しらず」になるしかなかった。宮中の狭い範囲なので、歌を撰ぶのは比較的容易だっただろう。しかし、武士が社会の実権を持つようになると、歌を入れてくれ、という要求を断りにくくなってくる。
 いわば、歌の作者の層が拡大したのである。この現象は歴史上しばしば起きていて、明治時代にも、和歌革新運動により、民衆の間に短歌が広がってゆく。そして現在も、ネットを中心に短歌を作る人が増加している。そうした時期には、歌を撰ぶ基準も大きく揺らぐのである。
 藤原定家の孫の為氏ためうじの代になると、撰歌の方法は大きく変わる。
「現存歌人は、撰歌が始まると聞くや否や、いきなり押し掛けたり、詠草を置いていったりする。撰者がいちいち目を通して採歌することは可能であろうか。この続古今集の頃から、撰歌の実務が門弟に委ねられ、撰者の負担を減らしたのではないか。しかも為氏は若い時から眼病を患っていた。」
 歌の数が増えると、全体を丁寧に見ることができなくなり、システマティックになってゆく。そうなると、藤原定家のような、独自性のある歌の撰びが失われ、前例踏襲的で無難な撰に陥りやすい。だが、それでは新しい価値が生まれにくくなってしまう。言うまでもなく、これも現代に通じる問題である。
 為氏の流れを汲む二条家に対抗したのが、京極為兼きょうごくためかねであった。為兼は、名門であることに安住する二条家に、新しい歌論を打ち出して立ち向かう。その歌論は、法相宗ほっそうしゅうの唯識論や空海の教義から影響を受けたもので、
「外界は人間が認識するからこそ存在する、だから感じたこと見たことを正しく認識し文字にさえすれば、外界を限りなく忠実に再現できる。古歌の趣向にも、細かな表現にも、拘らなくてよいのだ。」
といった主張であったそうだ。為兼が撰者となった「玉葉和歌集」には、
  山風の過ぎぬと思ふ夕暮におくれてさわぐ軒の松が枝
                           伏見院 
という歌が撰ばれている。夕風が吹きすぎた後、松の枝がざわざわと音を立てるという、時間差の発見が歌われているのである。こうした発想は、現代短歌にも少なくない。
  死にどころなしとてあゆみ行きたれば鶏舎を過ぎてのちにおう、、、
                              村木道彦『天唇』
 すぐに連想したのがこの歌だったのだが、他にもっと適した例があるかもしれない。鶏舎を過ぎた後に、風が臭った、という微妙な変化を捉えている。こうした認識のズレに注目することで、情景をリアルに描く手法は、私たちにとって親しいものだが、鎌倉時代にその萌芽があったことに驚かされるのである。
「後鳥羽院や京極為兼の個性は際立って鮮やかであり、そういう天才が手を下した撰歌は実に見事であった。ただ、それはやはり一回かぎりの奇跡である。中世の勅撰集とは、押し寄せる歌人の、歌道への情熱を吸収し、ともかく余計な波瀾を起こさず、確実に続けなければならない事業である。」
 含蓄の深い言葉である。撰歌とは、多くの人の歌への情熱を吸収することだ、というのが、実感的によく分かる気がする。だが、歌への情熱はしばしばわざわい(波瀾)を生み出す。撰者には、そのエネルギーの乱れを整流化することにより、皆が歌を長く続けられるような方向にもっていく意識が必要なのであろう。

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