誰かが批判することの大切さ / 吉川 宏志
2025年6月号
「歌壇」二〇二五年五月号の時評で、久永草太が、高島裕の「アイデンティティー」という作品(同二月号)について批判している。一首だけ引用するとこうした歌である。
国連を味方につけて強気なり、性と婚姻の紊乱者ども
昨年の秋、国連の女性差別撤廃委員会は、夫婦同姓を義務づける日本の民法の是正を勧告した。結婚すると同じ姓にしなければならない国は日本だけだそうで、二十年以上前から勧告を受けているという。また、同性婚を法律的に可能にしようとする動きも、国際的に広がっている。
選択的夫婦別姓や同性婚を、切実に必要としている人々(この文章を読んでいる人の中にもいるだろう)のために、社会を変えていかねばならないのは、当然のことである。
しかし高島は、そうした人々を「紊乱者ども」と呼ぶ。「紊乱」とは、辞書を引くと「秩序や風紀を乱すこと」と出てくる。「……ども」という言い方も加わり、偏見や侮蔑があることは否定できないだろう。強く非難されてもしかたがない歌である。
ただ、文学の上ではどのようなことを表現しても許されるという考え方も存在する。文学ならば、反社会的なことを書いても自由なのだ、という主張を、単純に否定はできない。
そこで久永は、高島の歌を文学的に語ることを拒否する。非常に怒りを覚えていることは端々から伝わってくるが、言いたいことをかなり抑制している印象を受ける。
「僕は、件の高島作品に対して、修辞的な指摘や比喩の妥当性など、思うところはあっても俎上にあげない。ただその倫理観のみを批判して『怖かった』とだけ主張したい。」
というのが結論部である。「怖かった」とは素朴な言い方で、評論的な表現ではない。文学的な論争を避けようとする意識が感じられ、そこにやや物足りなさはあるが、深く考えた上で選んだ書き方なのだろう。
最近、過激で攻撃的な主張をすることで注目を集めようとする言説が増加している(いわゆる「炎上系」)。そうした言説には、厳しく批判されればされるほど話題になり主張が広がってしまう、という厄介さがある。だから、読者を挑発するような作品については、むしろ無視するほうがいいのではないか、とも思う。
だが、専門家やメディアなどが有効な批判をすることができなかったために、極端で危うい言説が蔓延してしまう、というケースも少なくない。トランプの大統領再選も、それと深く関係しているはずである。
良識を逆撫でする言葉にどう向き合うのか、熟考しなければならない時代に突入しているのは確かである。久永の書き方も、そうした状況に、敏感に反応しているのだろう。
私は、中野重治の『斎藤茂吉ノート』の一節を思い出していた。茂吉には女性蔑視の歌がしばしば見られる。
宋美齢夫人よ汝が閨房の手管と国際の大事とを混同するな
『寒雲』(一九四〇年)
宋美齢とは、蒋介石の夫人であり、日中戦争のとき、ルーズベルト大統領らと親交することにより、アメリカの軍事的な協力を引き出したのである。茂吉はそれを性的な比喩を用いて罵倒したのだ。
杉浦翠子は、「肉的に弱点を見つけ出しては女を虐めたがる。これが男の通有性である。」と非難した。
それに対し中野重治は、男性一般に共通するという断定は無理だとしつつも、杉浦の批判を肯定する。
「私は心に一種のいやなものを感じた。」「言葉は下品につかわれ、言葉のえげつなさにおいて一首が抒情されているからである。これは政治の問題ではない。」
中野も、「いやなものを感じた」という素朴な感覚を大切にすることで、戦争の敵国への批判だから何を言っても許されるという風潮から脱出しようとしたのである。
今の目から見れば、中野の女性差別批判は不十分かもしれない。だが、戦時下という非常に保守化していた状況でも、性について侮蔑する歌を正面から批判した人々が存在していたことに、私は希望を感じる。良識を信じて、誰かが批判の言葉を書き残すこと。それが大切なのだ。