青蟬通信

二〇二四年の歌集から / 吉川 宏志

2024年12月号

 あっという間に年末である。今年も多くの歌集が出たが、印象に残った歌を一首ずつ紹介していきたい。
  猫が死んで楽になつたといふことを声に出て言ひ三たび目あはれ
                              酒井佑子『空よ』

 猫の看護に疲れ、やっと楽になれた、と知り合いに語る。二人目までは、にこやかに言っていたのだが、三人目に話しているとき、悲しみがどっと押し寄せてきた。思わず泣いてしまったのかもしれない。こういうことはよくある。人間の心をよく捉えている。「声に出て」が何げないが、よく効いている。遺歌集の中の一首。
  標本木のような生徒のひとりふたり解き終わるまでちらちらと雲
                           大松達知『ばんじろう』

 桜の開花を判断するために、気象庁の観察する木が決められている。それが標本木。この子が書き終わったら、クラスのだいたい全員がテストを解き終わっているだろう、とわかる生徒がいるのである。学校の先生のリアルな眼差しが感じられ、なるほどと思わせる比喩である。あまりじっと見ていても良くないので、窓の外の雲をときどき眺めている。
  そのひとに父を見てゐし歳月かいないな初瀬初瀬はつせの牡丹たけなは
                            黒木三千代『草の譜』

 長年好きだった男性に、自分は父を重ねていたのだろうか。そう考えるが、いやいやと否定する。そこから初瀬(長谷寺)の牡丹の花盛りにイメージはふっと飛んでゆく。この唐突な転換が面白い。打ち消されてはいるが、やはり父恋はあったのだろうと感じさせて、切ない。下の句の古謡のようなリズムも味わい深い。
  頭に袋おほふ手つきをおもひつつサドルに布を伸ばしておほふ
                              楠誓英『薄明穹』

 上の句は、テロリストが人質を処刑したときの画像を連想させる。日本人も殺害され、ニュースでもそのシーンの一部が流れたりした。そうした凄惨な事件を思い出しつつ、自転車のサドルに、カバーをかぶせている。日常のふとした場面から、殺人を行うときの手ざわりへと想像を飛躍させているところが鮮やかであり、強いインパクトを与える。
  めざめてもめざめても夜 めざむれば昼でありたる若き日おもふ
                       花山多佳子『三本のやまぼふし』

 年齢を重ねると、夜中にふと目を覚ますことが増えてくる。若いころは、いつまでも寝ていられたのに。日常の中の気づきを詠んだ歌だが、失った若さを懐かしむ思いや、老いへの不安が伝わってくる。「めざむ」という動詞が三度繰り返され、とても簡潔な文体が生み出されている。
  みづからの嘘に追ひつめられて泣くこどものなかのまひまひつぶろ
                         小島ゆかり『はるかなる虹』

 嘘がばれそうになってまた嘘をつき、つじつまが合わなくなって最後は泣き出してしまう。子どもがそんな状態になるのを、何度か見たおぼえがある。子どもの様子をよく見ている歌である。最後に「まひまひつぶろ」(かたつむり)が出てくるのがユニーク。泣き濡れている顔からの連想だろうか。結句の意外さにより、独特の読後感のある歌になっている。
  呼続よびつぎといふ夕闇の駅ひとつよぎりしこともまどろみのなか
                           大辻隆弘『つるばみと石垣』

 名古屋市にある駅らしい。電車の中で半分眠りながら、アナウンスを聞いている。美しい駅名が心に沁みるような一首だ。上の句で「や・よ・ゆ」の音が響き合い、下の句はゆったりと流すように作られている。韻律を楽しむ歌といえよう。
  採算と命の値段のくらき溝 鶏の治療はついぞ習わず
                           久永草太『命の部首』

 作者は若い獣医。牛などは治療をするが、鶏は薬など与えず、そのまま死なせてしまう。採算によって、治療するかどうかは決められるのである。これは動物のことだが、「命の値段」はもしかしたら人間の場合もあるのではないか、と作者は考えているだろう。どきっとさせる怖い歌である。「ついぞ」という口調が妙に耳に残る感じがする。
 他にも取り上げたい歌集があるのだが、ここで紙幅が尽きた。

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