『国宝』と、演じるということ / 吉川 宏志
2025年10月
「吉川さん、『国宝』を観てください」。今年の夏、歌会に行くと、女性の方々からよく言われた。映画館に二、三度行ったけれど、いつも満席である。ものすごいヒット作なのだと実感した。夏の終わりごろ、ようやくチケットを買うことができたが、そのときも席の八割は埋まっていた。
長崎の任侠・立花組の息子として生まれた喜久雄は、抗争により父を殺される。喜久雄の芝居をたまたま見た歌舞伎役者の花井半二郎は、その才能を見抜き、自分の家に引き取った。そして息子の俊介とともに、厳しい修行を積ませる。やがて喜久雄と俊介は、若き女形として人気を博するようになっていく。しかし、さまざまな波瀾が二人を襲う――といった物語である。
吉沢亮と横浜流星が演じる女形の美しさ、そしてそれを捉えた映像の迫力に圧倒された。歌舞伎の通
本物の歌舞伎役者が演じていない、ということも独特の効果を発揮している。若い俳優が、壮絶な特訓を重ねて、歌舞伎役者に成りきっていることに、感嘆してしまうのである。ときどき、映画の登場人物である〈喜久雄〉ではなく、〈吉沢亮〉として見ていることに気づかされる。
「曽根崎心中」を演じるシーンがあるのだが、このときはもっと複雑で、遊女の〈お初〉であり、〈喜久雄〉であり、〈吉沢亮〉でもあるという、三重の視線で、ひとりの人間の姿を眺めることになるのである。
観客にもたらされるこの不思議なまなざし。それこそが『国宝』の面白さではないかと思う。
激昂した後で「こういうふうに怒ったほうが面白いやろ」と相手に告げるシーンが二回ある。ほんとうの怒りなのか、演技なのか、宙吊りのようになり、奇妙な苦みが残っていく。演じることを極めようとするあまり、いわゆる〝本心〟は消失してしまうのである。
ここで強引に短歌のほうに話を持っていくのだが、藤原龍一郎の『寺山修司の百首』(ふらんす堂)に、こんな一節があった。
莨
寺山修司『空には本』
「タバコの火を床に捨てて、靴で踏み消すという行為は、現在ではあまり見られないが、昭和二十年代の場面として読めば、違和感はない。短歌という舞台で、存分に演技を見せようと奮い立つ寺山修司自身の姿としても読める。短歌形式は舞台であり、作品は演技であるとの宣言である。」
大切な指摘である。この歌も、「若き俳優」に、作者の寺山修司が重ね合わされることで、立体的な面白さが生じている。「作中主体」という言葉が歌の評でよく使われるが、単純に一つの主体があるわけではなく、重層化された存在であることを忘れないようにしたい。
寺山は特殊な例だと思う人がいるかもしれない。だが、作品の中で演じようとする意識は、多かれ少なかれ誰もが持っているのではないか。
胃がもたれるぢやなくて胃はもう無いんだつたと呟けば妻と娘がわらふ
本多稜『時剋』
重病で胃を切除した人の歌である。実際にあった出来事だろうが、シナリオのように書かれているため、ドラマの中の一場面のような印象も受ける。非常につらい状況なのだけれど、ユーモアのあるセリフによって、読者は一つの〝作品〟として読むことができるのである。
『国宝』でも、病気に罹ってしまった人への向き合い方がテーマの一つになっている。現実の世界では、慰める言葉をかけることができない。相手はライバルなので、憐みのように響いてしまうからだ。
しかし、歌舞伎を演じているときには、どれだけ愛しているか、悲しんでいるかを、病んでいる身体を撫でる行為で伝えることができた。このシーンはじつに美しく痛切で、映画館の中で、すすり泣く声がいくつも聞こえてきた。
演じることによって真実の思いが伝わるという逆説。観終わった後に、そんなことをぼんやりと考えた。