青蟬通信

〈考察〉的な読み / 吉川 宏志

2026年2月号

 三宅香帆の『考察する若者たち』(PHP新書)は、現在流行している文化の状況を、鮮やかな切り口で捉えていて、とても興味深かった。扱っている題材が新奇すぎて、落ち着かない気分になるところもあったが、強い説得力があると思う。
 書店に行くと『変な家』という本がベストセラーになっていることに気づくであろう(『変な地図』など、シリーズになっている)。奇妙な間取りの家の図面をもとに、そこで行われた犯罪を推理するホラー小説である。
 三宅はこう述べている。
「作者自ら、この間取りに伏線があること、考察すべき謎があることを、提示する。だからこそ読者はその正解を当てにいきたくなる。まさに『考察』という手法が流行している2020年代だからこそ、ここまで流行した本なのではないか。」
 そのうえで三宅は、〈批評〉と〈考察〉を対比する。〈批評〉とは、作者さえも想定していなかった作品の謎について考えていくことであり、「正解」がない営為なのだと語る。
「せっかく批評しようと頑張って努力しても、正解がなければ、その努力は報われない。だが考察には、正解がどこかにあるため、『わざわざ努力する価値がある』のではないか。報われやすく、やりがいもある。」
 つまり現在の読者には、「正解」にたどりつくことで喜びを感じる「報われ消費」を求める傾向があるのではないか、と指摘しているのだ。
 短歌ではどうなのだろう。短歌の読みにはもともと、〈考察〉と馴染みやすいところがある。短くて詳しく述べられないため、読者のほうで、書かれていないことを推量しなければならない。たとえば、
  残りたる者がひとつのテーブルに席を移してからが本番
                            松村正直『について』
という歌は、何も書かれていないけれども、夜が更けて宴会の参加者の多くが帰った後、少人数で飲んでいるときに、ようやく本音の話が出てくる、という場面であることを推察する必要がある。それが必ずしも「正解」とは言えないけれど、作者の意図と思われるものに触れることで、読者として喜びを感じる、ということはあるのではないか。
 もちろん、そうした推察で終わるのではなく、結句の「……からが本番」の響きが面白い、とか、さまざまな評も出てくるだろう。〈考察〉と〈批評〉は、両立しないわけではない。
 ただ、それとは全く別の次元で、読者を〈考察〉に誘うような歌集も登場しているように思われる。
 昨年刊行された田中翠香の歌集『パーフェクトワールド』(角川書店)は、この本の中に、一九八〇年代に活躍したという雪屋敷千紘の歌集『私の中の海賊たち』を収録した形になっている。すごくややこしいが、いわゆる「作中作」で、推理小説ではしばしば見られる手法である(綾辻行人『迷路館の殺人』など)。
  羊雲いっぴき家に連れ帰り抱きしめたいと思う秋の日
  さみしさもわが骨格と思いつつ鍋のミルクへ溶かすキャラメル
  手の熱が双眼鏡を温めるおうし座散開星団の下

などが、行方不明になり死亡宣告を受けた雪屋敷千紘の歌ということになっている(おそらく架空の人物)。私はこれらの歌を好むけれど、作者とは別人の作として歌集に収める意図はよく分からなかった。短歌は作者の実体験として読まれる、という図式を崩したかったのかもしれない。
 角川「短歌」一月号の時評「不自然さから考える」で、川島結佳子が田中翠香の意図を〈考察〉していて、なるほどと思いつつ読んだ。
「私は雪屋敷千紘のモデルが誰なのか考えながら読んだが、具体的な誰かではなく自分と同世代で亡くなった歌人の集合体だろう。」
「本歌集にある不自然さに田中の短歌を詠む上での葛藤があり、言葉の格闘が見える。」
 こうした〈考察〉的な読みが生まれることを、田中は望んでいたのかもしれない。私は『パーフェクトワールド』の試みが成功しているとは思わないが、読者から〈考察〉されることを狙うような歌集や連作の作り方は、今後増えていく気がする。

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