読むことと疲労について / 吉川 宏志
2025年1月号
三宅香帆の『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書)が大変面白かった。
学生のころは熱心に短歌を作っていたのに、就職をきっかけに作歌をやめてしまう若者は少なくない。短歌と仕事の両立は非常に難しい。この本は、そうした切実な問題にも深く関わっていると思う。
三宅は、読書のしかたが明治以降どのように変化したかを分かりやすくまとめていて、とても参考になる。谷崎潤一郎の『痴人の愛』は、大正期にサラリーマンが誕生したことと密接な関係がある、という指摘など、なるほどなあと感じさせる。
そして、全身全霊で働かねばならないと思い、自分で自分を追いつめてしまう現代社会への批判が最後に書かれており、大いに共感した。
私が会社に勤めていたころ、部署の残業量を減らそうとしたのだが(私は早く家に帰って短歌を作りたかったのである)、若い社員たちに「もっと働かせてください」と総務部に訴えられたことがある。がむしゃらに働かないと、自分が無能に見られてしまう、という精神状態になっていたようだ。もちろんそういう心理は私の中にもあるので、理解はできるのだが、他者からの視線を気にしすぎではないか、と感じた。
三宅は、労働に全力を使い切ることを称賛する社会を変えるべきではないか、と提唱している。確かにそのとおりで、全力で働いていないと無能に見られる、という恐怖心は、称賛を失うかもしれないという不安感から生じているのである。
そして三宅は、疲れているとき読書はできないのに、スマホは見られるのはなぜか、というユニークな問いを提示している。
インターネットの情報は、今の自分にとって必要のないノイズを除去することができる。しかし、読書の場合、自分にとってノイズになってしまう「他者の文脈」に触れなければならない。そのノイズに付き合うことが、疲労しているときには困難になってしまうのではないか、と三宅は述べている。この視点も非常に興味深かった。
最近、土屋文明の『続々青南集』(一九七三年)を読む機会があった。
国庁址にみちびくと言ふ随き行けば寺の庭見せ茶を飲ますなり
といった平坦な歌が、千二百九十首、延々と続いている。正直言って、途中で何度も挫折しそうになる。だが、
人間のありあるやうはごちやごちやばたばた栂の尾をうしろに坂はぬかるみ
といった、じつに奇妙な歌がときどき出てきて、目が覚めるような心地になる。長大な歌集を、最後まで読み切ったときの達成感はやはり格別だ(もう少し歌を減らしてよ、という気持ちになるのは否定できないが)。
三宅の表現を借りると、たくさんのノイズの中から、強い印象を与える歌を、自分で見つけ出すことが、歌集を読む喜びだと言えよう。ただ、自分にはピンとこない「他者の文脈」に幾度もぶつかることになるため、重厚な歌集を真正面から読むと、ひどく疲れてしまう。その疲れを快く感じられるか否か。それが歌集を読む喜びを味わえるかどうかの分岐点になるのではないか。
その一方、インターネットの「X」では、よく目立つような一首が、次々に流れてくるスタイルになっている。歌集から切り離され、一首を単体で楽しむという傾向が顕著である。それはつまり、「他者の文脈」が除去されて、一種の〈情報〉として短歌が扱われているということなのではないか。そうであるから、スマホ上でいくつも短歌に出会うけれど、疲労を感じることはない。
最近の歌集も、読者にノイズを感じさせず、スムーズに読ませるタイプが増えていると思う。感覚的な言い方になるが、作者が透明化しているので、さらりとして読みやすい。土屋文明みたいに、濃密な自己を持つ作者の歌は、読むと疲れるのである。
だが、読むのがしんどい歌集を耐えながら読むという体験も重要なのではないか。他者の歌を読むのは、ほんとうは心身の力を削られるような大変な営為なのだ、という認識も、忘れてはならないように思う。