九十年代の岡井隆の歌 / 吉川 宏志
2024年11月号
九月二十二日、「後期・岡井隆を語る会」が京都で開催された。私もパネリストとして参加した。そこで話したことを記しておきたい。
或るボランティアの死に。
中田さんと呼ばれ通称となつて行く菜の花の根の枯るる迅さに
岡井隆『神の仕事場』
これは荒神橋歌会(京都で行われた超結社の歌会)の第一回目に、岡井さんが出された歌だった。一九九三年の四月で、菜の花の季節は過ぎようとしていた。『神の仕事場』の中では特に際立った歌ではないが、さまざまなことを考えさせられ、私にとって忘れがたい一首なのである。
中田厚仁さんは、国連のボランティアとして、カンボジアの総選挙の支援をしていた。ところが、何者かに襲撃されて殺害された。まだ二十五歳だったという。
当時のマスコミは、「中田さん」と親しげに呼び、一種の美談として報じた。一九九二年にPKO協力法が激しい反対の中で成立し、海外に自衛隊やボランティアが派遣されるようになって間もない時期に起きた事件だった。政府は、PKO協力法への批判が再燃することを避けたかったはずだ。もしかするとマスメディアもその意を汲んで、〈悲劇のヒーロー〉として扱う方針にしたのかもしれない。私の記憶では、PKO協力法の危険性に結びつけた報道は、ほとんどなかったように思う。
今は「メディア・リテラシー」という語がよく使われるが、報道の仕方を批判的に見ていくことは重要である。一九九一年の湾岸戦争で、油まみれになった水鳥がテレビに映され、後になってフェイク・ニュースだと分かったことがあった。短歌でも、水鳥を悲しむ作品が数多く作られたため、報道に騙されてしまう危険性について少なからず話題になった。
岡井の歌はそうした問題意識を反映しており、報道によって世論が流される違和感を表現している。マスメディアの姿勢を批判する歌は、現在はしばしば作られているが、当時はそれほど存在しておらず、やはり先進的だったのではないか。一九九〇年ごろの短歌を再検討すると面白いことが見えてくるはずである。
時事的な事柄を歌いつつ、「菜の花の根」という農村的な風景へと結びつける歌い方も興味深かった。植物などを詠み込むことで、社会詠であっても、抒情性を確保しようとする。政治的な主張を全面的に訴えるのではなく、和歌的なやわらかさや余裕を残しておく。そうした歌い方に、私は大きな影響を受けた気がする。
中田厚仁さんを記憶している人はあまりいないだろう。しかし歌に詠まれることで、ささやかだけれども、なまなましい言葉として記録される。そこに短歌で社会を歌うことの大きな意味があろう。誰かが印象的に歌うことにより、長い時間が過ぎた後でも、事件をもう一度ふりかえる読者は現れてくるのではないか。
生きゆくは冬の林の単調さ とは思はないだから生きてる
もう一首、『神の仕事場』から。葉を落とした冬の林は、いかにも単調で変化がないように見える。しかし下の句で強く打ち消し、生きることを素直に肯定する。「生きてゐる」ではなく、「生きてる」というラフな口語にしているところも、当時は新鮮であった(今は珍しくないが)。
何かとても覚えやすい歌で、通勤中などに私はこの歌をときどきつぶやくことがあった。毎日の面倒な仕事の繰り返しに潰れそうだったが、この歌に心を支えられる感じがしたのである。素朴すぎて、最近はこんなことを言う人はあまりいないけれど、励ましてくれるような歌を持つことも、とても大切な気がする。
岡井の「冬の林」の歌は、上の句と下の句で分裂していて、文体も大きく変化している。一首の中に、複数の人格が入り混じっているような印象を受ける。しかし、それがリアルな人間像を生み出しているのではないだろうか。私たちは現実の生活の中で、さまざまな人格を使い分けながら生きている。そうした多面的な自己のあり方を、岡井隆は、分散するような文体で表現しようとした。その試みは、現代短歌にとって重要なものであったと、私は考えている。