雑誌に残る秘かな恋 / 吉川 宏志
2025年5月号
先月も書いたように、古泉千樫の研究のために、「アララギ」の古い雑誌を調べている。ときどき、ちょっとした発見をすることがある。
明治四十四年第三号には、東京歌会の詠草が掲載されており、千樫の歌が五首記されている(歌会に五首も出せたのだろうか。ちょっと驚く)。伊藤佐千夫、斎藤茂吉、土屋文明などが出席している。その中に、
いさゝかの銭を貸したる事ゆゑに疎くなりたる友しかなしも
という歌がある。千樫の歌集には収録されていない。歌会での評価が低かったのか。しかしこの歌は、
ただひとり吾より貧しき友なりき金のことにて交
土屋文明『往還集』
を思い出させる。大正十四年に作られたこの歌は、自然主義の影響を受けた作としてよく知られている。千樫の一首が歌会に出てから十数年が経っているので、直接的な関係はないと思われるが、文明の脳裡にかすかに残っていたのかもしれない。
こうした目に見えないつながりが、古い雑誌を読むと、浮かび上がってくるのである。
大正三年の「アララギ」第四号もなかなか衝撃的である。四十一ページの上段には、原あさを(原阿佐緒)の「この日ごろ」八首が載っている。
身のぬくみほどよき床にうつゝなし恋のやよひのあかつきの床
ひとり寝てただひとり寝て近き日に妻となる身を寂しみにけり
しみじみと涙流るる日もありと告ぐる人さへ今はあらずも
そしてその下段には、千樫の「桃の花」七首が置かれている。
桃の花遠
桃のはなくれなゐ曇りにほやかに寂しめる子の肌のかなしき
桃の花くれなゐ沈むしかすがにをとめのごとき女なりけり
加茂信昭の『古泉千樫のうた百首鑑賞』などを読むと、妻子のあった千樫が、阿佐緒と不倫関係にあったことが明記されている。大正二年の十二月に、千葉市稲毛の旅館「海気館
千樫の歌は、逢うことのできない女に対するメッセージであった。阿佐緒の二首目の「寂しみにけり」と、千樫の二首目の「寂しめる子」が照応しているのは間違いないだろう。彼女の結婚を知り、三か月ほど前の密会を切なく思い出している。千樫の心に、彼女は桃の花のようなイメージを残したのだった。
阿佐緒はその数年後に、「アララギ」の石原純と恋愛関係に陥り、歌壇を揺るがすような事態になるのだが、ここでは省略する。
千樫は「アララギ」の編集長で、誌面をかなり自由に操作することができた。だが彼には怠け癖があり、しばしば雑誌が遅刊してしまう。それが問題になり、大正三年の第五号から、千樫から茂吉に編集責任者が交代するのである。つまり、「この日ごろ」と「桃の花」を上下に並べたのは、千樫の最後の仕事だったわけだ。千樫の雑誌の私物化にも、茂吉は怒りをおぼえていたのだろうか。
橋本徳壽の『古泉千樫とその歌』を読むと、千樫は次のようなことを語ったと書かれている。
「僕は雑誌主義なんだ。此頃ではそうでもないが以前は大抵の雑誌は初号からずつととつて置いたものである。(略)僕は何故雑誌主義であるかといふと、僕は明治の文学史、短歌史といふものを書かうと思つてゐた。それを書くには単行本では何も知り得ない。(略)雑誌の歴史が即ち文学史短歌史であつて、新聞雑誌を外所にして文学史短歌史を論ずることは不可能である。」
私は「単行本では何も知り得ない」とまでは思わない。しかし雑誌には、さまざまな人間関係が濃密に残っているのは確かであろう。
千樫は「アララギ」を後の時代に読む人に、自分と阿佐緒の秘かな恋に気づいて欲しかったのではないか、と夢想するのである。