古泉千樫の歌を解釈する / 吉川 宏志
2025年4月号
一年くらい前から、古泉千樫の歌を一首一首解釈する仕事に取り組んでいる。千樫は生前に『川のほとり』という歌集を一冊だけ出していて、
秋の空ふかみゆくらし瓶にさす草稗
(大正十三年)
などが代表歌である。「草稗」はおそらくイヌビエのことで、田んぼなどに生える雑草。米作りの邪魔になるが、安房(千葉県)の農村の出身の千樫にとっては、親しみを感じる存在だったのだろう。イヌビエの穂は秋になると褐色になるので、「さびたる」は錆びたような色の変化を表していると考えられる。
この年の八月、千樫は突然喀血し、家でずっと寝ている状態だった。
うつし身は果無
同時期の歌からは、死を意識し、生のはかなさを自覚している様子がうかがえる。下の句の解釈がやや難しいが、「――らく」は「……すること」の意味。ようやく横向きに寝られるようになって嬉しさを感じたのだろうか。それまでは横向きに寝ると胸が苦しかったのかもしれない。
そんな病状が背景にあることを知ると、「秋の空ふかみゆくらし」の読みが微妙に変わってくる。外に出られないので、「らし」という推量を使ったことに気づくからだ。イヌビエの穂を見ながら、今は秋空の青色が深まっているだろうと、心を部屋の外に遊ばせている。
この歌は、そんな作者の状況を知らなくても、十分に優れた作品だけれど、歌が生まれてきた場が分かると、言葉の色合いが違って見えてくる。同じ物体であっても、光の当たり方によって印象が変わる。それに似たことが、言葉でも起きるのである。
またこの歌は、
瓶にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとゞかざりけり
正岡子規(明治三十四年)
小夜
長塚節
の二首も意識して作られているはずである。もうこの世にいない二人の歌人への敬意が、病の中で一本の草に心を寄せるという歌の形を招き寄せたのだとも言えそうだ。
平易そうな歌なのに、よく読むと、いろいろと書きたいことが見えてくる。優れた歌人の歌をじっくりと解釈すると、言葉の奥にある広がりが改めて感じられるのである。歌の解釈とは、たとえて言えば、襞
千樫の歌は素直なものが多いが、たまに難解な言葉が出てくる。
秋晴れの長狭
(大正十三年)
長狭は現在の千葉県鴨川市に残る古い地名で、千樫の故郷である。しかし「さく」が分からない。柵
それが分かれば後は簡単で、「遠ひらけ」は、谷が遠くまで開いている様子だろう。それで、少し高い所に登ると海が見えるのである。スマホの地図によれば、千樫の生家から海まで十キロくらい。いつか実際に行って、海が見える様子を確かめてみたい。
米たかきさわぎひろがりこの街の祭にはかに延びにけるかも
異国米
(大正七年)
今読むとハッとする歌もある。この年の八月に米騒動が起きたことを背景としている。東京では暴動が起き、深川八幡祭りが中止になったらしい。二首目の「異国米」は、併合した朝鮮から運び込まれた米だったようだ。当時の政府はそんなふうに対処したのかと驚かされるが、千樫は、外国の米を子どもに食べさせることに不安をおぼえていたのである。
歌を調べると、歴史のかけらのようなものが見えてくることもある。