青蟬通信

文法と語感 / 吉川 宏志

2023年3月号

 もうすぐ出る歌集に、
  鷹に鈴つけて飛ばせしいにしえは雪の空より鳴りひびきしか
という歌を入れた。すると校正の方から、「飛ばせし」は「飛ばしし」の間違いではないでしょうか、という赤が入った。
 しかし、私の語感では、「飛ばせし」のほうがしっくりするのである。なぜなのか、いろいろと考えたのだが、思い当たったことがある。
高名かうみやうの木のぼりといひしをのこ、人をおきてて、高き木にのぼせてこずゑを切らせしに……」                     (『徒然草』第百九段)
 木登りの名人が、人に指図して、梢の枝を切らせた、という場面である。中学校の教科書にもよく載っている有名な段だが、この「切らせし」が記憶の中に残っていたのだ。
 ちょっと煩わしいが、文法的に言うと、「切ら」(四段動詞「切る」の未然形)+「せ」(使役の助動詞「す」の連用形)+「し」(過去の助動詞「き」の連体形)ということになる。
 「飛ぶ」も「切る」と同じく四段動詞であるから、「飛ばせし」という言い方も間違いではないはずである。
 一方、「飛ばしし」が正しいという説はなぜ生じるかというと、動詞「飛ばす」に「し」が接続すると考えれば、連用形は「飛ばし」なので「飛ばしし」になるのである。
 ただ「飛ばす」は、口語的な動詞で、古語辞典には出てこない。比較的新しい語なのだろう。つまり、
・文語文法で考えれば「飛ばせし」もあり得る。
・口語文法で考えれば「飛ばしし」が正しい。
ということになるのではないか。私は文法に詳しいわけではないので、専門の方のご意見をおうかがいしたいが……。
 このような問題はときどきあって、
  馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人戀はば人あやむるこころ
                             塚本邦雄『感幻樂』
という有名な歌も、「戀ふ(恋ふ)」は上二段動詞なので、「戀ひば」が本来の活用になるらしい。ただ、時代が下るにつれてしだいに四段活用に変化してゆき、現代では「戀はば」のほうが自然に感じられる。塚本も悩んだらしいが、歌としては「戀はば」のほうが上の句との響き合いもいいので、「戀ひば」にしなかった、という話をどこかで読んだ記憶がある。
 文法にも、必ずしも間違いとは言えない〈幅〉みたいなものがあり、最終的には自分の語感や音感によって決断するしかないのだと思う。
 最近たまたま斎藤茂吉の『童馬漫語』(大正八年)を読み返していたのだが、次の一節が目を引いた。
「結句に『居たり・・・』と詠んだのは予を以て始まると、自負してゐたところが、明治三十二年四月廿五日竹の里人が香取秀眞に送つた歌に『薄衾堅きが上の床ずれのいたや痛やに選歌忘れ居たり・・・』といふ歌があつた。」
 茂吉の『赤光』には、明治四十二年作として、
  をさな妻こころに守り更けしづむ灯火ともしびの虫を殺してゐたり
  このたびは死ぬかもしれずとひしたまゆら氷枕ひようちんこほりとけ居たりけり

などの歌が収録されている。茂吉が自分の発明した結句のように言っていることについては、さらに検証する必要はあるが、近代に作られた文語であることは確かなのだろう。当時の人々にとっては奇異な感じがする表現だったのではなかろうか。現代短歌でも「ゐたり」はよく使うので、気づきにくいのであるが。
 「居る」ではなく「居たり」とすることで、時間的に存在しているニュアンスが加わり、音感的にも重厚さが生じてくる。茂吉は「自分は確かにここに生きているのだ」という、言わば実存的な感覚を、この文語に込めようとしたのだろう。
 もちろん文法を守るのは大切なことなのだが、しばしばそこから逸脱するような語感や音感が生じることもある。それをすぐに消去しないことも、短歌を作るときには重要であるように思われる。
  あな憂しといふは文法的に誤りか ま、いい冬の黄蝶あな憂し
                              河野裕子『母系』
(注・古典では「あな」という形で使われることが多いようである。)

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