二〇二二年の歌集を読む / 吉川 宏志
2022年12月号
昨年と同じく、十二月号は、この欄で触れられなかった歌集について、一首ずつ紹介することにしたい。
もう二度と乗れぬと思ひし車椅子体が縦になるを驚く
有沢螢『縦になる』
重病で、ずっと仰臥生活を送ってきた人の歌である。ようやく車椅子に乗るところまで恢復した。体を起こすという当たり前の姿勢がどんなに尊いものだったか、という感慨が「体が縦になる」という言葉にこもっている。即物的な表現だが、自分の体を物のように感じているわけで、そのように生きてきた時間の厳しさも、おのずから伝わってくる。
玉かぎる夕つ人われ忽ちに夜つ人やがて影と消えなむ
高橋睦郎『狂はば如何に』
老いと死を徹底的に描いた歌集。老いの歌には、露骨でなまなましいものもあり、衝撃を受けたが、ここでは美しい歌を引きたい。老人の自分を「夕つ人」と呼び、やがて死の世界へ消えてゆくだろうと歌う。韻律の流れが嫋やかである。
初恋は遅きがよきか咲き残りゐるかたくりの若きむらさき
伊藤一彦『言霊の風』
上の句に、ほのぼのとした好
岬端
栗木京子『新しき過去』
灯台の明かりだろうか。灯りが点滅していると、夜景は微笑むような表情を見せはじめる。その感覚をどう歌うかが難しいのだが、「あどけなくする」という言葉の選びに鮮やかな冴えがある。「岬端」という言葉も美しい。
米好きのわれ亡きのちに炊く米の量を思ひて妻をぞおもふ
山中律雄『淡黄』
重病を宣告された人の歌である。自分が死んだ後は、あまり米を多く炊く必要はなくなるな、とはかないことを思い、妻のその後の生活を思いやっている。「……思ひて妻をぞおもふ」という繰り返しのリズムが、揺れ動く心情をリアルに感じさせ、心に沁みる一首である。
舌のやうに延びる中洲がうつすらと向かうの岸に触れむとしたり
大辻隆弘『樟の窓』
しばしば見ることのある川の風景を絵画的に描いた歌だが、「舌のやうに」「触れむとしたり」で、エロティシズムも漂う。自然を性的に見るまなざしが、光景につややかさを与えている。「うつすらと」という語も効いており、水草が繁茂し、触れるか触れぬか、微妙な様子が目に浮かぶ。
ふるさとは小分けにされて真っ黒な袋の中で燃やされるのを待つ
三原由起子『土地に呼ばれる』
作者は福島県の浪江町の出身。放射能に汚染された故郷のさまざまな物たちが、今も大量の黒いフレコンバックに詰められて、燃やすこともできずに放置されている。「小分けにされて」が哀切だ。バラバラにされても、一つ一つがふるさとなのである。
宇宙船ドッキングのごと丼を近づけて煮卵を分け合う
鯨井可菜子『アップライト』
夫とラーメンを食べている場面のようだが、比喩がユニークで、日常が非常にスケールの大きな世界と結びつけられる。何にも囚われていない発想がみずみずしい。好きな人と食べる嬉しさがいきいきと伝わる。
ありながら、なきごとき母とおもふとき夏は百日紅のちさき花
山下翔『meal』
まだ存命だが、亡くなったように感じられる母、という表現から、葛藤の暗さが覗く。下の句の展開も印象的で、「なつはさるすべ/りのちさきはな」と異様な句またがりをするのだが、そこに屈折した愛憎が滲むのである。「夏は」という助詞の置き方にも、独自の響きがある。
他にも取り上げるべき歌集はあるが、残念ながら誌面が尽きた。