〈読み〉のピグマリオン / 吉川 宏志
2024年4月号
「コールサック」という詩歌から小説までを扱う総合誌がある。二〇二四年三月に刊行された一一七号の短歌時評で、座馬寛彦さんが、
数字しかわからなくなった恋人に好きだよと囁いたなら 4
青松輝『4』(二〇二三年)
という歌について、
「この数字に私は五段階評価を想起した。五段階評価は学校の成績しかり、商品やサービスの評価基準として街なかやネットに溢れている。『数字しかわからなくなった恋人』は、五段階評価に象徴される現代社会の価値観、システムを無抵抗に、あるいは否応なく受容し、適応した人ではないだろうか。そんな相手に寄り添い、ひたむきに愛する作中主体の姿が浮かび上がってくる。」
と書いていた。「4」という数字は、
「最高の『5』ではないが、上々の評価だ。何かが足りないという意味を含んでいるようにも思えるし、それだから良いのだと言っているようにも受け取れる。」
と述べている。
おもしろい解釈だと思いつつも、ちょっと納得できない感じも持った。「4」が「五段階評価」だという根拠はなく、やや恣意的な読み方のような気がしたからである。
三月に、現代短歌フェスティバルin奈良が行われたのだが、染野太朗さんもこの歌を取り上げていて興味深かった。染野さんは、恋人と自己との間でコミュニケーションが成り立たない状況を歌っているのだと語っていた。発言の詳細は記憶しておらず申し訳ないのだが、言葉が通じ合わない絶望感を染野さんは捉えていたように思う。また、楠誓英さんからは「4」は「死」に通じるのだろうか、という指摘があった。
その場で急に思いついたのだが、「好きだよ」という言葉を聞いても、数字しか分からないので、「ス・キ・ダ・ヨ」という4音としか認識できない状態なのではないか。そう読むと、アンドロイドのような恋人の姿がイメージできる。SF映画みたいな異様で哀しいシーンが目に浮かぶ。
染野さんにこの読み方はどうかと聞いてみると、「そういう解釈も可能だと思いますよ」という答えが返ってきた(良かった)。ただ、後で『4』を読み返してみると、
数字しかわからなくなった恋人が桜の花を見る たぶん4
という歌もあり、どうも私の説は成り立たないようである。「5」なら花びらの数になりそうだが……。「死」という説が当たっているのかもしれない。私の解釈も恣意的なものに過ぎないのであった。
さて、今回私が書きたいと思っているのは、以下のことなのである。
私は初め、「数字しかわからなくなった……」は、そんなにいい歌だとは思わなかった。意味が曖昧な、どのようにでも読める歌だと感じていたのである。ところが、「ス・キ・ダ・ヨ」の4音ではないか、という〈答え〉を思いついたとき、妙にこの歌に愛着を感じてしまった。これは不思議な経験だった。
ギリシア神話に、ピグマリオン王の伝説がある。ピグマリオンは、理想の女性を彫刻するが、いつかその像に恋するようになってしまう。女神のアフロディーテは、ピグマリオンを憐れみ、彫像に生命を与え、人間にしてやったという。
短歌にも同じようなところがあって、読者は、自分が生み出した〈読み〉に惚れこんでしまうことがある。自分の願望や思想を、他者の作品に投影してしまう、ということなのだろう。短歌では、作者の思いや意図は省略されることが多いから、読者の側が作り出す幻影の部分が、過剰になりやすいのである。
それも短歌を読む楽しみの一つだろう。だが、どのようにでも解釈できる歌を、それぞれの読者の思い入れで褒め上げるのは、危うい感じがする。自分の好みを表明しているだけで、客観的な評価につながらないのではないか。いや、客観的な評価なんて存在しないのかもしれないが。
難しい問題である。解決法はないけれども、自分の〈読み〉の中に、どれくらい自分の好みや幻想が入り込んでいるのか、つねに意識していくしかなさそうである。