青蟬通信

自分には見えない世界 / 吉川 宏志

2023月8月号

 必要があり、与謝野晶子の歌を一日読み返す。
  パブロバは見えぬ世界を求むる手我等に代り挙ぐと思ひぬ
                         『流星の道』(一九二四年)
 「パブロバ」とは何か。検索するとお菓子の名前ばかり出てくるが、アン・パブロワというロシアのバレエダンサーのようだ。一九二二年に来日公演をしており、晶子も観に行ったのだろう。当時の日本人はまだバレエを知らない人が多かった。パブロワは、日本にバレエが普及するのに大きな功績を残したという。
 パブロワは、自分たちに見えない世界に手を触れているのだと、晶子は直観している。この感覚は分かる気がする。優れたダンサーは、私たちに見えないものを感じながら踊っているとしか思えないときがある。それは他のジャンルでも同じで、別の世界を感知しているかのような一流の芸術家は、確かに存在する。
 神秘主義的に聞こえるかもしれない。しかし、自分に見えないものは他人も見えないと考えるのは、むしろ狭隘な人間観なのではないか。自分には見えないものが見える他者を信じるほうが、芸術の場合は、深いところに導かれる気がする。
 角川「短歌」五月号に「観察から比喩へ」という文章を書いた。
  とかげのやうに灼けつく壁に貼りつきてふるへてをりぬひとを憎みて
                       河野裕子『桜森』(一九八〇年)
などの歌を引き、「身体的な感覚によって自己と自然を繋ぐ表現」が、現代短歌において探求されてきたことを論じている。
 それに対し、「かりん」七月号の時評で、川島結佳子さんは次のように述べている。
「この場合、主体は思いを述べるためにとかげの身体を借りていることになるが、とかげ自身はどう思っているのだろう。私にはとかげの気持ちが分からないので、とかげがこの歌をどう見ているのかを判断することはできず、とかげはどう思っているのかを伝えられない。吉川は論のなかで観察の大事さを述べてはいるが(河野の歌もとかげの生態を観察したうえで詠まれている)、主体の思いを表すために自然の身体を借りることは、表現方法の一つであることは承知の上で、自然の側から何も伝えられない以上、人間本位であると思うのだ。」
 一般論としては理解できる。いわゆる〈人間中心主義〉への批判であり、拙著の『風景と実感』も、こうした考え方を強く意識しながら書いた。ただ、とかげの気持ちは分からないので「人間本位」だという歌の読み方は単純すぎるのではないか。
 河野のとかげの歌は、今年の「短歌研究」二月号の「一九七〇年代短歌史」でも考察している。七〇年代には、女性の短歌は「自と他の観念」がはっきりしていない、という批判があった。当時は〈自己の確立〉が重視されており、混沌とした自己は否定されるべき対象だったのである。河野の歌には、女性の弱点と見られていたことを、可能性の宝庫として捉え直した新しさがあった。そうした歴史的な背景を、多くの人に知ってほしいと願っている。
  何でかう青空は青くさびしいのか山があるせゐだよと空が答へた
                               河野裕子『葦舟』
  このところ白根葵しらねあおいがわれである きみをおもえばそよぐそよかぜ
                            渡辺松男『泡宇宙の蛙』
 確かに私は、空と話したことはないし、白根葵の気持ちも分からない。だが、「主体の思いを表すために自然の身体を借りる」というだけの表現ではないと感じさせる力が、こうした歌にはあるはずだ。自分には知ることができない世界と、河野や渡辺は交感できているのではないか。そう信じる気持ちが、私にはある。
 私には分からないから、他の人も分からないだろうという推量は、歌の豊かな広がりを縮減してしまう。そんな姿勢は「自分本位」に陥っているように感じるのだ。
 自分には見えないものが見える人間がいるのではないか、という開放的な信頼感。それは、短歌だけではなく、どんな芸術を味わうためにも必要なものであろう。

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