青蟬通信

『オッペンハイマー』私見 / 吉川 宏志

2024年5月号

 映画『オッペンハイマー』を見た。ご存じの方は多いと思うが、原爆を開発したアメリカの科学者の半生を描いた映画である。
 第一印象は、映像の美しさが圧倒的であった。闇の中の光で、物理学のさまざまな現象をイメージさせるシーン。大学や実験室の重厚な質感。陰湿な尋問(オッペンハイマーは戦後、ソ連のスパイではないかと疑われた)の中で突然現れるエロチックな妄想。この映画では、時間が現在と過去を目まぐるしく行き来するのだが、それに伴って映像が次々に切り替わるので、コラージュのような印象が生まれてくる。
 登場人物が多くて誰が誰だか混乱する、という声もあるけれど、細かい点はあまり気にせずに、鮮烈な映像と音響を楽しむという姿勢で臨むほうがいいと思う。三時間もある映画だが、私は全く飽きずに見ることができた。視覚・聴覚をひっきりなしに刺激されていたのだろう。
 オッペンハイマーは、多大な犠牲者が生じることを知りつつも、プロジェクトに邁進する。さまざまなトラブルが起きるが、彼は大胆に、そして粘り強く、障害を乗り越えてゆく。その仕事ぶりが痛快で、原爆という邪悪な存在を生み出しているのにもかかわらず、ある種の生の充実感が伝わってくる。それが私には、最も突き刺さってくるところであった。
 私も会社員だったころ、社会的にはあまり好ましくない仕事に従事したことがある。しかし、実際にプロジェクトのリーダーをしていると、しだいに面白くなってくる。
  「道徳」のテスト作りて売り上げを増やしし日々の資料を刻む
                              『雪の偶然』
 私の場合とはスケールが全く違うけれど、兵器開発の仕事も、実際にやっている人々には、非常にスリリングで面白いものなのだろう。いつか悪に愉しみを感じてしまう。それが戦争の恐ろしさなのではないか。
 『オッペンハイマー』に対して、広島・長崎の惨状をほとんど描いていない、という批判がある。燃え上がる少女や黒焦げの死体を幻視するシーンなどはあるのだが、被爆した人々や街を、克明に描いた場面は存在しない(ロスアラモス実験場の巨大な炎は再現されている)。
 そうした批判はよく理解できる。ただ、この映画の中で、原爆の悲惨さをリアルに描くことに抑制的だった理由も分かる気がした。
 オッペンハイマーは戦後、一転して核兵器の開発に反対するようになるのだが、もし、広島や長崎のなまなましい映像が入ると、「被爆者の姿に心を痛めて、核兵器に反対するようになった」という分かりやすい文脈が生じてしまう。だが彼は、このままでは世界が滅びる、という地球規模の危機感から反対しているように見えた。一人一人の人間の痛苦よりも、〈人類全体〉という抽象的なことを考えている感じがしたのである。
 もちろん、自分の発明した原爆で多くの人々の命が奪われた、という罪悪感は彼の表情から滲み出ていた。しかし、その後悔によってではなく、未来への恐怖から核兵器の開発を止めようとしていたようだ。
 ウクライナやガザの凄惨な遺体の画像はネット上にいくつも存在している。だが、それを見なければならないのか、といえば、やはり違うように思う。現実の残酷な死を見ずに、それでも戦争に反対するという立場も存在する。そんなことを考えた。
 オッペンハイマーとアインシュタインの対話も印象深い。アインシュタインは、「申し訳なかったという人々の思いのために、賞が与えられることがある」といったことを語る。前述したように、オッペンハイマーはソ連のスパイだと疑われ、公職追放されるのだが、映画の最後で、エンリコ・フェルミ賞を受賞し、名誉を回復するシーンが映される。
 映画『オッペンハイマー』はアカデミー賞を七部門で受賞した。核兵器を廃絶できないことへの贖罪の思いが、この受賞につながったのだと解釈できないだろうか。それを予見した上で、アインシュタインの台詞が書かれている可能性も、明晰なクリストファー・ノーラン監督の場合は、あり得るような気がする。

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