青蟬通信

牧水と朝鮮民族美術館 / 吉川 宏志

2022年10月号

 過去の短歌を調べつつ読むと、推理小説のように、一首の背後が見えてくることがある。そんなときは、自分が探偵になったような愉しさを感じる。最近もそんな経験をしたので書いておきたい。
   京城慶福宮後苑内、緝敬堂にて
  ときめきしいにしへしのぶこの國のふるきうつはのくさぐさを見つ
                       若山牧水『黒松』(一九三八年)
 牧水は一九二七年に朝鮮を旅行して、珍島チンドや金剛山などでいくつも歌を詠んでいるが、京城(現在のソウル)では、この一首しか残していない。講演や歌会や揮毫など、スケジュールが過密だったせいかもしれない。
 「慶福宮」は「景福宮」が正しいが、当時の日本人向けの新聞にはこの表記も見られる。一九一〇年の韓国併合以来、日本は植民地支配を進めていた。地名などを勝手に変更することはよく行われていた。
 私はこの歌を読み、宮殿の中に朝鮮の王族の古い陶磁器がいくつも残されていたのだろうと思っていた。ところが調べてみると、状況は少し違うことが分かった。
 緝敬堂しゅうけいどうは後宮が置かれていたところだが、その建物を利用して、柳宗悦むねよしや浅川伯教のりたからが、朝鮮民族美術館を一九二四年に開設していたのである。彼らは、日本が朝鮮文化を破壊していることを憂慮し、古陶磁器を中心に、優れた美術品を収集し保存しようとしていた。一九二二年に柳宗悦が書いた『朝鮮とその芸術』は、今読んでも胸を打たれる。
「日本の同胞よ、剣にてつものは剣にて亡びると、基督キリストは云つた。軍国主義を早く放棄しよう。弱者を虐げる事は日本の名誉にはならぬ。彼等(注・朝鮮の人々)の精神を尊び肉体を保証することが友誼であると深く覚れよ。(中略)吾々は人間らしく活きようではないか。自らの自由を尊重すると共に他人の自由をも尊重しよう。しもこの人倫を踏みつけるなら世界は日本の敵となるだらう。さうするなら亡びるのは朝鮮でなくして日本ではないか。」
 この時代に、植民地支配や軍国主義を批判し、大日本帝国の滅亡まで予想していたことに驚かされる。
 牧水の一首が、朝鮮民族美術館の展示品の感想であることはまず間違いない。牧水は「流るる水」というエッセイで次のように書いている。
「京城の、画家で古陶器研究家である浅川伯教氏に伴はれて行つた或る王宮趾の廃園もなつかしい。(中略)その廃園を通りぬけた所に一つの楼門が残つてゐた。四方にあつたあとの三つはうにとりこぼたれたのださうだ。(中略)何故酒を持つて来なかつた事であらうとわたしはくやんだ。四辺の風物はことごとくわたしを息苦しくし、あとではまともに物を見得ぬまでに胸がつまつてゐた。」
 当時の朝鮮では、日本人の為政者が不要と見なした文化遺産が、移築されたり売られたりしていた。「とりこぼたれた」楼門は、日本人が撤去した可能性が高い。それを浅川伯教から教えられ、息苦しくなり胸がつまったのではないか。牧水ははっきり書いていないが、日本が行っている文化破壊に、気分が悪くなったのだと考えられるのである。
 『黒松』に、「朝鮮民族美術館」という言葉は記されていない。この歌集は牧水が亡くなった後に刊行されたが、そのときは軍国主義がさらに進んでいた。朝鮮民族美術館は、日本の植民地支配への批判につながる存在である。だから、牧水がこの美術館に行ったという事実は、伏せられることになったのかもしれない。
 牧水は、政治や社会を批判する歌をほとんど作っていない。ただ、日本が朝鮮で行っていた圧政について、ひそかに心を痛めていた。自ら積極的に行動することはなかったが、見るべきものは見ていた。この一首には、朝鮮民族美術館に対する静かな共鳴が潜んでいる。
 牧水と柳宗悦には意外な関係がある。「創作」の同人に、竹添履信たけぞえりしんという画家がいるが、柳宗悦の親戚なのである(年齢は宗悦のほうが八歳年上)。一緒に京都旅行もしていて親しかったようだ。この竹添から柳宗悦の活動を聞き、朝鮮旅行のときに、朝鮮民族美術館を訪問したのではないかと私は想像している。

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