青蟬通信

時間と言葉 / 吉川 宏志

2022年9月号

 渡辺松男の新歌集『牧野植物園』が出た。時間とは何か、という問いをさまざまに考えている歌におもしろいものが多かった。
  山頂で握り飯たべてゐるわれにやつと出会ひぬ空腹のわれ
 たとえばこんな歌。お腹を空かしながら山を登ってきて、頂上で握り飯を食べた、というありふれた体験を歌っているのだが、このように表現されると、じつに奇妙な世界が生じてくる。
 「握り飯をたべてゐるわれ」と「空腹のわれ」は、同じ「われ」なのか。常識的には同じだが、満腹時と空腹時とでは、だいぶ感覚が違っているし、精神状態も変化するように思われる(私も空腹時は怒りっぽくなる)。
 別々の「われ」を、時間がつないでいるという発想が奇抜だが、それでも思わず納得してしまう言葉の力がある。
  木をみつつ森の最後の一本の木とすれちがふまでが現在
 ふだんはあまり意識しないが、森から出るときに最後の一本はあるはずで、その木を通り過ぎたとき、森の中にいた時間は終わってしまう。そこで一つの「現在」が終わり、また別の「現在」が始まると言っていいだろう。ややこしい発想だが、これもたしかに時間の一面を言い当てている。「現在」とは、平板に連続しているものではない。
  臼に蝶翅とぢたれど動くものとうごかぬものと時間がちがふ
 庭に石臼が置かれていることがあるが、そこに蝶がとまっているのだろう。下の句は当たり前のようだが、このように歌われると、生きているものと生きていないものに同じように時間を当てはめていいのか、疑わしくなってくる。
 「私はそんな混同をしない」という人がいるかもしれない。しかし、「この家は築二十年だ」という言い方を、私たちは普通にしている。これも、「うごかぬもの」に、人間と同じ時間の単位を使っている例だろう。知らず知らずのうちに、人間は、時間を一つの物差しで見ているのではないか。そんなことを考えさせる歌なのである。
 このように、時間について思索するきっかけを作ってくれる歌も――なかなか難解だけれど――価値があるのではなかろうか。
 大森静佳の新しい歌集『ヘクタール』にも、それに近い視点から作られた歌があるように感じた。
  ゆびさしてゆびさす前のこころごとあなたが見せてくれた青鷺
 これも、解釈が難しいが、なぜか印象に残った一首だった。
 「ゆびさす前のこころ」とは、青鷺にまだ気づいていないときの感情だろう。青鷺がいることを教えてくれたとき、「今まで気づかなかったね」といったことを、「あなた」が言ったのかもしれない。
 たしか哲学者の中村義道だったと思うが、「今日は楽しかったなあ」と過去形で思ったとき、はじめて「今日」という時間が意識されるのだ、というようなことを書いていた記憶がある。それと少し似ていて、今まで気づかなかったものを相手に教えられることで、今までの時間が見えてくるということはあるのではないか。
 そんなふうに、「あなた」によって自分の時間も変化してゆく、ということをこの歌は描こうとしているように思われた。
  おばあさんになったわたしの傍にいて いなくてもいて 山が光るね
 上の句は従来からある表現だろうが、「いなくてもいて」というフレーズに衝撃を受ける。もし傍にいなくても、魂や幻として居てほしい、という感じか。とても切ない歌である。結句は、山が夕陽に照らされているようなイメージで私は読んだ。未来と今が混じり合うような、不思議な読後感を残す一首だ。
 時間とは、言葉によって作られている。同じ一日であっても、「夏の終わり」と感じる人もあれば「秋の初め」と思う人もいる。逆に言えば、言葉を変えることによって、時間のあり方は変化するのである。
 渡辺松男や大森静佳の歌は、言葉によって、常識的な時間の流れに抗あらがおうとしている。

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