八角堂便り

萩原葉子さんのこと / 前田 康子

2016年5月号

 萩原葉子といえば、詩人萩原朔太郎の長女で、その壮絶な自伝的小説『蕁麻の家』などは朔太郎に憧れを抱いていた私にはショッキングな一冊だった。その萩原葉子に「命の本」というエッセイがある。
 恋愛に走って家を出た母のせいで祖母(朔太郎の母)から毎日「死んでしまえ」などと罵声を浴びせられ粗末な食事を与えられていた葉子が、十三歳の時に本当に死のうとした。三尺帯を持って家の屋根裏に上がろうとした時、部屋の本棚に「悲しき」という文字が見えたという。それは啄木の『一握の砂 悲しき玩具』だった。
  東海の小島の磯の白砂に
  われ泣きぬれて
  蟹とたはむる
 開いた頁のこの歌に釘付けになった。「自分と似た人がいるのだ。悲しくて泣く人もいるのだと、私は思った。」と。 
  しつとりと
  なみだを吸へる砂の玉
  なみだは重きものにしあるかな
 葉子はわれに返り死ぬのも忘れてこの一首を詠んだという。自分のうちにマグマのように籠もっていた哀しみや悔しさを啄木の歌に出会うことにより、葉子は自分から取り出し作品にして客観的に見ることができたのだ。死ぬことばかりを考えていた日々に啄木の歌は「命の本」となり彼女を強くした。
 その後、小説家になり自分の人生をとりもどしていくが、四十代からダンスに夢中になりダンススタジオつきの自宅を建て、忙しい日には先生を自宅に呼んでレッスンする日々であったらしい。自分の出版記念会では必ず新しい踊りを披露したとか。
 また驚くことには七十代でアクロバット入りのデュエット(アダジオ)を始めたという。私も実際にはよく知らないが、男性の肩の上に立ったり逆立ちしたりと、フィギュアスケートのペアダンスのようなものだと思う。いろいろなダンスをした末にもっと難易度の高いものに挑戦したくなったらしい。恐怖と闘いつつ、それでも一つずつ出来ていく喜びを七十代で味わい生き生きと暮らし八十四歳で亡くなった。ダンスもまた葉子にとって趣味だけに留まらず、命を支えるなくてはならないものだった。
 先日、六十代の女性に私の習っているベリーダンスは何歳までできるのかと訊かれた。体力的なこともあるし、肌をみせるコスチュームも年齢に関わって来る。そういえば私は何歳まで踊るのか?と考え込んでしまった。しかしよく考えると何十代という時間で自分の人生にあれこれ区切りをつけるのは哀しい。ガタが来たら終わり、それまでああだこうだとあがいてみるしかない。

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