八角堂便り

翻訳 / 山下 洋

2016年4月号

 学生生活が長かったので、本当にさまざまなアルバイトをした。家庭教師から、土手の草刈りのような肉体労働まで。喫茶店でも働いた。皿洗いにサンドイッチづくり、しょっちゅう失敗して叱られたが、少しは庖丁が使えるようになったのはそのおかげだろう。堺の工場でパレットを修繕したこと。美術用具ではなく、物流用具。簀子みたいなもので、上に荷物を載せたら、フォークリフトの腕を突っ込んで移動させるためのもの。そのパレットの、割れた板を除去し、新しい板に取り替える仕事。物はこうして搬ばれるのかなどと思いつつ、釘を打っていた。
 翻訳も忘れがたいひとつ。文学作品ではなく、化学関係の論文の和訳。納期は決まっているが、自分の空いている時間にできたので、自由が利いた。こんな風に書くと、英語が得意だと思われそうだが、実は大の苦手。中学高校と英語の成績は超低空飛行だった。ある日の放課後、学校近くの本屋で立ち読みした音楽雑誌。読者欄に投稿されていた「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」の訳詞、タイトルと同じ歌詞のリフレインが〈そこはもう苺畑、そこはもう苺畑〉と訳されていた。ああ、こんな感じでいいんだ、と思ったこと。それがきっかけで、英文解釈への抵抗感が薄らいだように思う。ジョン・レノンやボブ・ディランを自分で訳してみようと思ったのである。
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 昨年十二月の現代歌人集会、講演は松平盟子さん「大逆事件と明星歌人」。総会後の懇親会で講師への質疑の時間が取られ、松村正直さんが「短歌往来十一月号で島内景二さんが、上田敏の『海潮音』は日本人が本物の象徴詩を書く障害となったのではないか、と述べられていることについて、どう思われますか」と質問された。なにぶん水割りやワインなどをすでに頂いていたので、正確にお伝えは出来ないのだが、「言葉の意味とともに、韻律もまた、詩にとって大事な要素であろう。七五調を採用することで、『海潮音』は読者の胸に響いたのではないか」との旨、松平さんが仰有っていたと思う。
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 松平さんのお話を伺いながら、ランボオの詩を思っていた。小林秀雄や堀口大學ではなく、粟津則雄訳。〈十七だ! じきしあわせになれるのさ!〉(「ニナの返答」より)。五七五のリズムをランボオ作の無季俳句として記憶したのはいつのことだったか。後日、本棚をひっくり返して探し出した粟津訳『地獄の季節』(思潮社)の奥付、一九七三年五月二〇日第一刷発行。二十歳だったのだ。花山さんの一首〈熱き怒りやや鎮まりてランボーが帽子をとりて出でゆきし日ぞ〉(『樹の下の椅子』)に出会うのはその五年後、一九七八年。ぼくが塔に入会した年のことである。

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