八角堂便り

樋口一葉の歌 / 栗木 京子

2015年12月号

 九月に現代歌人協会の公開講座で今井恵子、穂村弘とともに「樋口一葉の短歌」について語る機会があった。一葉は「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」「大つごもり」などの作品が今も読み継がれる小説家だが、二十四年間の短い生涯で約四千首の歌を残している。十四歳で中島歌子の歌塾・萩の舎に入門して桂園派的な題詠を中心とする指導を受けた一葉(歌人としては本名の夏子)の歌は、型にはまった旧派のもの、と見做されがちだが、一首一首を読んでゆくと独特の個性の輝きを秘めた作品が少なくない。
 興味深かったのは、詠歌指導においてどのような添削がなされたのかについて今井から具体例の提示があったこと。
(原作)をちこちに梅の花さく様見ればいづこも同じ春かぜやふく
(添削)をちこちに梅の花さく頃となりいづこも同じ春かぜのふく
 和田重雄による添削。原作の一葉の歌には「花さく様見れば」という視覚による動きがあり、結句「春かぜやふく」の「や」に躍動感があふれている。だが添削では「花さく頃となり」と季節の内側に作者は入り込んでしまう。結句も温厚なまとめ方である。また、もう一首、
(原作)ふる雨に桜の紅葉ぬれながらかつちる色に秋はみえけり
(添削)そめ出し桜の下葉ふる雨にかつ散る秋に成にける哉
 こちらは中島歌子による添削。「桜の紅葉」と直截的に表すのでなく、添削では「そめ出し(色が染まってきた)桜の下葉」と細かく描写している。たしかに丁寧な言い方ではあるが、そのぶん一首の中に文節が多すぎて煩雑に感じる。何よりも「秋はみえけり」という発見が「秋に成にける哉」と無個性な季節感に回収されてしまったのが残念である。
 一葉が亡くなった明治二十九年は与謝野鉄幹の『東西南北』が刊行され、佐佐木信綱が「いささ川」(「心の花」の前身)を創刊した年である。三年後には正岡子規を中心にした根岸短歌会が創刊されている。新しい文学の流れのまさにその分岐点で、「歌人・樋口一葉(夏子)」はこの世から消えてしまった。
  おく霜の消えをあらそふ人もあるを祝はんものか年のはじめも
 明治二十八年の年頭に詠んだ一葉の歌である。背後には日清戦争がある。「おく霜の」は「消え」に掛かる枕詞で、「人もあるを」の「人」は戦地で次々に命を落とす兵士たちのことを指す。兵の苦しみを忘れて正月を祝っていていいのか、という問い掛けが印象深い。
 九年後の明治三十七年、日露戦争に際して与謝野晶子は詩「君死にたまふこと勿れ」を発表したが、一葉が存命だったならきっと晶子と肩を並べるようにして社会的な発信をしたに違いない。つくづくと夭折が惜しまれる。

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