八角堂便り

口語と話体 / 花山 多佳子

2015年11月号

 川野里子の評論集『七十年の孤独―戦後短歌からの問い―』が出版された。これから読むところなのだが、拾い読みした「文語と口語」の章から、とりとめなく思い浮かんだことをいくつか。
 一九八〇年代の口語の歌として、
  子供よりシンジケートをつくろうよ「壁に向かって手をあげなさい」
                               穂村 弘 
  ぼくたちは勝手に育ったさ 制服にセメントの粉すりつけながら
                               加藤 治郎 
 があげられていてなつかしかった。『シンジケート』と『サニー・サイド・アップ』のカタカナのポップなタイトルがいかにも時代である。この二歌集の文語の歌もいっしょに並べられている。
 『シンジケート』は特に口語の歌集という印象が強かったが、いま開いてみて、文語の歌が意外に多いのに気がついた。会話や話体の取り込みが斬新だったので、目が眩んでいたのだが、話体でない歌は文語になっている傾向がある。むろん全部ではないが、かなり口語イコール話体の感がある。
 川野の言うように、「口語で語られるときにはより開放的に、文語で語られるときにはより内省的な響きとなっている」「使い分けのようにさえなっている」のである。むしろ内省的な短歌に、会話、話体という突破口をひらき、その必然として口語が多くなったともいえる。
 「シンジケートをつくろうよ」のような呼びかけは文語だとどう言うのだろう。「つくらん」と言うと自分の意志に回収されてしまう。「共につくらん」と補わないと呼びかけにはならない。
 加藤治郎の歌も「僕たちは」であり、「僕は」でない。どちらも子供どうしの悪(わる)の連帯のようなひびきがあり、その発信がサブカルテャー的で新しかったと思える。
  サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさびしい
は孤独な叫びではあるが「聞いてくれ」の「くれ」は口語でしか言えない。懇願の相手が「象のうんこ」なのは絶妙である。象もうんこも子供にとって絶対的なものだから、神のようなものだ。
 「くれ」で思い出すのが前川佐美雄の『植物祭』。わりとある。
  草よ木よみな生きてゐて苦しみのあはれなるわれを伸びらしてくれ
  土の暗さで出来上がつた我だと思ふときああ今日の空の落つこつてくれ
 『植物祭』は文語と口語が混じって、その混じり方はひどくこなれない。「伸びらしてくれ」は何か変だ。どちらも「苦しみのあはれなるわれ」、土の暗さの我の救いを求めて、命令形でなく懇願の話体になっている。
 較べると穂村弘の「聞いてくれ」から「だるいせつないこわいさびしい」と叫んだ話体は、現代の口語の進化を感じさせる。

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