八角堂便り

超弩級の読み違い / 永田 和宏

2015年9月号

 私は歌の読みについては、かなり自信を持っているほうなのだが、時々とんでもないまちがいもする。間違うことがあるなどは当然のことではあるが、そんな例を一つ紹介しておきたい。超弩級のまちがいである。実は、それは吉川宏志さんの指摘で初めて知ったのだった。
 今年の初めに、NHK出版から『新版作歌のヒント』を出版した。八年前に出した『作歌のヒント』の増補改訂版である。改訂版が出るというのは、著者にとっては新著が出るよりもうれしいことである。この著については、「塔」七月号に大辻隆弘さんに書評を書いていただいた。まさに著者の言いたいことを著者以上にわかっているといった素晴らしい文章であった。ぜひお読みいただきたいと思う。
 新版では、巻末に数十枚からなる新しい章を加えた。「日常のなかでこそ歌を!」、「短詩型における表現の本質」の二章である。その最後の章で、村木道彦の一首を取り上げた。
  するだろう ぼくをすてたるものがたりマシュマロくちにほおばりながら
                              村木道彦『天唇』 
 私はこの一連をパンフレット誌「ジュルナール律」第三号、「緋の椅子」十首で読んでいる。もう五十年近く前になるのだろうか。その時、作者村木がどこかの時点で「ぼく」を捨て、それをいま、誰かにその顛末を話してあげようかと言っている歌ととったのである。十首全体から感じられるアンニュイな雰囲気が、自分をとっくの昔に捨ててしまった青年が別にどうでもいいやという風に友達に話をしている、そんな場面を想像させたのである。それ以来、ずっとそう思ってきた。
 ところが吉川さん曰く、これは恋人が作者を捨てたのではないでしょうか。えーッと、まさに大げさでなく、声をあげてしまったのだった。まさにその通り、それ以外ないじゃないか。
 作者を捨てた恋人は、そのうちきっと誰かに作者を捨てた顛末を平気で(マシュマロを頬張りながら)、話すのだろう。
 そうなのだと思う。なんでまたよりによってヘンにむずかしい解釈をしてしまったのだろう。村木道彦が恋人に振られるなんていう場面が、ちょっと思い浮かばなかったのかもしれない。
 これは確かに吉川解が正解なのだろうと思う。『新版 作歌のヒント』はいま三刷りだが、それでは次の増刷りの時に、ここを訂正するか。どうすべきか。
 結局、直さないことにしようと思う。こんな風な限りなく〈正解〉に近い解釈があるがと、注解を加えてもいいが、私の解釈も残しておきたい気がするのだ。私は、この本のいちばん最後に次のように書いている。
 「逆説的に言えば、歌では作者の小さな世界観で歌を小さく縛ってしまうよりは、
 歌を不全性のなかに解放してやることにより、多くの読者が個別に自らの文脈のな
 かで再現したり、再生したりしてくれる。そのほうがはるかに大きな世界の獲得が
 可能になると思うのです。歌を作者だけの思いのなかに縛ってしまわずに、読者に
 解放してやること。短歌という詩型における作歌という行為の本質はそこにあるの
 ではないかと、私は思っています。」
 ちょっと負け惜しみの感がないでもない。

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