短歌時評

水仙と盗聴(二) 名詞のこと / 大森 静佳

2015年9月号

  水仙と盗聴、わたしが傾くとわたしを巡るわずかなる水     服部真里子 
 引き続きこの歌について、今回は一首の向こうに見えるものを探ってみたい。
 斉藤斎藤は「短歌人」七月号の時評でこの歌を取り上げ、「水仙と盗聴」の二物衝撃のわからなさと「わたしが傾くとわたしを巡るわずかなる水」というわかりやすい身体感覚への着地との間の落差に、作者の意図が透けて見えてしまうと指摘している。
 「意図的」かどうかは言い切れないが、一首のなかに言葉の質感の落差があるのはよくわかる。下句のゆったりと外に開かれた感覚に比べ、前半部分は圧縮がきつく、「水仙」から全くカテゴリーの違う名詞「盗聴」へと大きな飛躍がある。
 その裏には、名詞そのものへの服部の強いこだわりが見えてくるようだ。「現代短歌新聞」八月号のインタビューで、服部自身が「名詞萌えをするタイプですね。ぐっときた単語を、歌の中にうまく置けないかなといじったりしながら作ることが多いです」と発言していたこととも繋がってくる。
 名詞へのフェティシズム自体は、塚本邦雄や水原紫苑など、特に美意識の鋭い歌人にしばしば見られるものだ。その偏愛は当然、「名詞の文学」とも呼ばれる俳句から影響を受けているだろう。
  心臓はひかりを知らず雪解川      山口優夢 
  耳尖るフランツ・カフカ柚子ゼリー   田中亜美 
 手元にある若手俳人のアンソロジーから引いた。ともに一句二章(取り合わせ)の句だが、前者は雪解川で見た眩しい光が逆説的に「心臓はひかりを知らず」という気づきを運んできた句で、明快かつ魅力的。それに比べ、二句目はどうか。「尖る」以外の十四音がすべて名詞で出来ている。カフカの顔の陰鬱さと柚子ゼリーの色彩やほろ苦い味。響き合っているような気もするけれど、名詞間の飛躍が大きく、名詞以外のヒントが少ない。
 「水仙と盗聴」の歌は、名詞の扱い方という点ではこの二つの句の中間ほどに位置づけられそうだ。
 斉藤斎藤は以前、「てにをはの読解が第一」(「歌壇」二〇一二年十月号)のなかで名詞偏愛の危うさについて次のように述べていた。
  名詞以外に手がかりの乏しい歌の読みは、個々の読者がもともと名詞に抱いてい
  るイメージに依存するため、読者の好みに引き寄せられた「迎えて読む読み」に
  なりがちである。
 確かに、名詞中心の歌は、個人のなかで閉塞したイメージにある程度依存してしまう。
  夜ごとに昼ごとに痩せ七月と父は並んで眠る銃身  
                         服部真里子「歌壇」八月号 
 しかし、服部がこうした歌でやろうとしているのは、もちろん単なる名詞の押し売りではない。動詞や助詞、助動詞が一首の力を縦方向に深めてゆくとすれば、名詞は横方向にイメージを乱反射させる。それを生かし、「と」という助詞を跳躍台にして名詞から名詞へと大胆にダイブする。一般に名詞は、動詞などに比べると「静的」な言葉と言えそうだが、服部が紡ぎだす名詞同士の連鎖は非常に「動的」なものなのだ。服部は、名詞の飛躍や二物衝撃の力によって、斉藤が指摘するような危うさを超えようとしているのではないのか。その試みをどう読むべきかということが、いま問われている。
 「水仙と盗聴」の試みが成功しているのかどうか、その結論はまだ出ないが、少なくとも、短歌の言葉について考え直すきっかけとして、パワーと話題性を持った歌なのではないだろうか。 

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