八角堂便り

膨らんで帰る / 永田 淳

2015年8月号

 京都造形芸術大学で短歌の講座を受け持つようになって、今年で五年目となった。講座は週に一回連続二コマ、前期の前半、七週間しかない。一回生向けなので、三、四回生は単位にならないのだけれど、今年は毎回二〜三人が遊びに来てくれていた。
 わずか十四回の講座で短歌の何が伝わるのだろうと毎年思うが、それでも、中には講座が終わってからも作り続けてくれる学生がいたりして、それは嬉しいことだと思っている。
 私はこの五年間、ずっとこの四~七月にかけての木曜日の昼からの二コマを楽しみにしてきた。それは教えることが楽しい訳ではなく(実際、教えることは苦痛だ)、つい数ヶ月前までは高校生だった学生たちが、どんな面白い読みをしてくれるのだろう、どんな突飛な歌を作ってくるのだろう、ということがイチバンの楽しみだった。
 先日、学科の講師会があり、今年から来られた編集者上がりの方に短歌は何を教えてるのという質問をされ、教えてるんではなく楽しみに、遊びに行っているようなものです、と答えたら「ギャラをもらってる以上、遊んでたら駄目だよ」と随分と叱られた。
 その考え方はたぶん、一方では正しいだろう。
 けれど、短歌は教えてうまくなるものでもないし、読み巧者になるものでもない、と思っている。作歌上のょっとしたヒントを与えることと、短歌を作る・読む楽しさが伝わればそれでいいんではないだろうか。元来、俳句、短歌、詩などは定量化して点数をつけられるものではない。
 歌会の場などで「お勉強に来ました」「勉強させていただきました」という発言を聞くことが多い。
 勉強だと思うから、肩も凝るし、選者の言うことを金科玉条のように思ってしまう。テスト感覚で、高得点がとれそうな歌を出そうとする。
 そうではなくて、実験的な歌を誰がどう読んでくれるか、また自分がどれだけスリリングな読みを示せるか、そこが歌会のもっとも楽しいところだと思う。
 歌会は長く続ければ続けるほど、そうした「勉強の場」といった傾向が強まっていき、だんだんと停滞に向かっていく。そう考えてみると、大学での七週間というのは適当な長さなのかもしれない。
  好きなこと言ひてすぎたる二十余年どの教室も元気で膨らんで
                             河野裕子『蟬声』 
 これはカルチャーのことを歌っているが、「教室」を「歌会」と換えてもいいだろう。肩を凝らして帰るのではなく、好きなことを言って、歌会の後は元気に膨らんで帰ればいい。

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