百葉箱

百葉箱2015年8月号 / 吉川 宏志

2015年 8月号

  赤字決算われが告げたり二日後の晴れゆきし朝自死せし人あり   土肥朋子
  
 作者は会計の仕事をしているので、取引先の会社に、赤字決算を報告したことがあったのだろう。自分のせいではないけれど、告げたことが引き鉄になって自殺されたことが、心の傷となっている。淡々と詠まれているが、「二日後の晴れゆきし朝」という表現から、そのショックが鮮烈なものであったことが窺える。
  
  ゆびさきにバターの香りがついたまま鐘つきに行く夕方の鐘    片山楓子
  
 これも作者を知っているとさらに楽しめる歌だろう。作者はお寺の人。夕飯の準備をしながら鐘をつきに行くのは日常の一部なのだろうが、バターと鐘の組み合わせが新鮮だ。「鐘」の繰り返しが柔らかなリズムを作り出し、懐かしさがある。
  
  妻にある記憶なき八時間 吾には消せぬ記憶となりぬ       大久保明
  
 妻が八時間昏睡状態だったのだろう。それを見守っていた時間は、作者にとって忘れがたいものになった。非常にシンプルな作りだが、一人一人に流れる時間は違うということが強く迫ってくる。上の句の字足らずも、記憶の欠落と響き合っている。
  
  亡き夫の声とも聴かむお手玉の中に混ぜたる背広のボタン     古谷智子
  
 遺品を詠んだ歌は多いけれど、ボタンをお手玉の中に入れたという具体性が印象的で、個性のある歌になっている。上の句は、歌会では批判が出るかもしれないが、素直に心を述べたところが、この歌の良さになっているとおもう。
  
  採寸のメジャーひんやり身にふれつ順化(フエ)の夏月上りくるころ
                                竹内真実子
  
 「順化(フエ)」はベトナムの都市名。異国の夏の夜に、冷たいメジャーを体に当てられる感触が、独特の美しさを生み出している。表記にも気が配られ、繊細な巧さがある。

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