百葉箱2024年6月号 / 吉川 宏志
2024年6月号
ブラウスの貝の釦にはじかれて春の陽光小さく曲がる
王生令子
実際に「曲がる」様子は見えないはずだが、言葉によって美しいイメージが創られる。
風たてば風におされてさざなみは池の央へ弧を広げゆく
斎藤雅也
情景を図形的に鮮明に捉えており、韻律も清冽である。
十から二十今日は百羽と白鳥の日増し飛び立つ庄内平野
矢野正二郎
白鳥が北に帰る様子を快いリズムで歌う。数が効果的。
春はただ春を思い出すためにくる坂の途中にうかぶモクレン
山名聡美
確かに春になると、過去の春を思い出してしまう。「うかぶ」という動詞の選びが良い。
河口あたりを流れてをらむわが影を映して別れた用水のみづ
高橋ひろ子
水の行方を想像している歌。「河口」と「用水」の対照が良く、空間に広がりが生まれた。
顔に直ぐ木枯らし受けつつ麦を踏む帰省の孫のあとに続きて
山下太吉
麦踏みという昔ながらの農作業を通し、孫と共にいる時間の貴重さを情感深く歌っている。
一夜にて池を覆ひし薄氷の下をゆるりと背鰭のうごく
仙田篤子
鯉であろう。厳寒の中の生命感が静かに伝わってくる。
心臓の位置の違いを知るために人は抱き締め合う腕を持つ
君村 類
抱くことでかえって浮き上がる違和感があることを思わせる。簡明な文体が効果的である。
たとへばで出てくるひとが古過ぎる生きてる人で言つてと言ふ妻
本田 葵
旧仮名で妻の言葉がずっと続く文体によって、シニカルな面白さがさらに増している。
ステーキの支払い終えて帰る時牛のナンバー教えられたり
清水千登世
名前ではないけれど、牛が生きていたことを意識させられ、ぎょっとさせられたのだ。
ほこほこと風呂を上がれば足裏にめぐり会いたりいつぞやのごま
永野千尋
題材が楽しい。結句の平仮名が童話のように暖かい。
パレットのかたい絵の具に落とす水 うすくはがれてゆくよ記憶は
浅井文人
上の句、リアルに物を見ている。感情への展開も巧い。
陸橋より上に見えゐし水平線徐々に下がりてやがて消えたり
森田敦子
視線の動きを丁寧に捉え、海の光が目に浮かぶ一首。
絵をまへに人は鱗をなしてゐてわたしが立つのは尾鰭のあたり
森山緋紗
比喩がじつに鮮やか。「尾鰭」には生々しさもある。
みづからの放ちし音を追ふやうに風は揺らせり青き竹叢
小平厚子
竹の音が連続する様子を、独特の比喩で描いている。
枝雀さーん もし今生きていたならばスマホ持たずにいてくれるかな
小西白今日
初句がユニークで、桂枝雀の風貌が強く迫ってくる。
年金は先にのばすと言う夫が脱皮するごとスーツ脱ぎゆく
丸山かなえ
将来への不安も漂うが、飄々とした味わいがある。
護符のような言葉があると信じてる 新潮文庫の上のギザギザ
大八木靖子
天アンカットというらしい。自分を支える言葉を探すために本を読むのかもしれない。
泣きそうにずっと両手を振り合っている引力のあいだを通る
鈴木ベルキ
駅などで別れる二人の間を通り抜ける場面。申し訳ないような感覚を捉え、面白い歌だ。
眼鏡置きに打ち捨てられた銀縁が白い灯りを吸う美容室
名森風佳
よくある場面をじっと見つめることで、奇妙に歪んだ写真のような印象が生じている。