百葉箱2023年8月号 / 吉川 宏志
2023年8月号
兄さんに教へてもらひしバットの木あの日のままにしろき花咲く
安永 明
アオダモの木らしい。「兄さん」は当時野球少年で、もうこの世にはいないように思われる。
ひと言のメール届きぬ「おやすみ」と病室はいま消灯ならむ
谷口公一
淡々とした文体に、淋しさと優しさが籠もっている。
もう後に入る人なき墓なればセメントにて口を固める
南條暁美
死の非情さが迫ってくる歌。第四句は字足らずだが、喪失感が表れているとも読める。
花の数競い合いたる向かいの子越して行きたり あさがおを蒔く
林田幸子
花の数を競っていた子を思い出しつつ、朝顔を育てることになるだろう。静かな哀感がある。
長すぎる絵本読ませてごめんねとはなしの途中に六歳が言う
矢澤麻子
六歳の子の心遣いに、驚きと寂しさを感じずにはいられないのである。
興味ない、と興味ないものに言い切れる若さがあった僕もあの頃
峠 秋太郎
興味のないものにも深い世界があることがある。それを知ると、切り捨てられなくなるのだ。
今になほ頬覚えをり被爆死の祖母を焼きたる榾火の熱を
前田 豊
「頬」が印象深く、重い記憶の一端が読者にも手渡される。
君に背を向けてミントの若葉摘むさあ朝霧を抱くやうに抱け
小林純子
ミントの香りがみずみずしく伝わる一方、非常に大胆な一首。命令形が美しい。
半透明に広がる空を羽ばたいてゴミ袋の中のコバエは
真栄城玄太
リアルな描写だが、強い閉塞感があり、自己を投影しているようにも感じられる。
聞いてもらえなかった言葉 泥団子は白砂まぶしてそして潰すの
中井スピカ
無視された痛みが、泥団子に重なり、強い触感がある。
ご家族の時間ですからと看護師はベッドの影に小さく座る
吉田 典
臨終の場面。看護師の言動には経験の深さが感じられる。
フィルムケース知らない子らの手のそれにめだかのえさをさらさら分けてやる
うにがわえりも
今の子はフィルムを知らない。「それ」がおもしろく、何か分からずに持っている様子をうまく捉えている。
鉄板にパンケーキの泡ふつふつと小鳥のあくびのようにひらきぬ
toron*
「小鳥のあくび」という見たことのないものが、表現の綾で、リアルに見えてくる愉しさ。
踏み台の上で背伸びをしてわかる大谷選手の目から見た部屋
といじま
法話にもグランプリ有ると知りし日に動画を少し覗いてみたり
川上奈津代
といじま作品・川上奈津代作品、最近の話題を取り入れつつ、読者をはっとさせるおもしろさがある。
裁縫を母に習つてゐる夢に間近くありしやはらかき膝
西山千鶴子
「膝」により、夢のなまなましさが伝わってくる。
三日前に捜したる物見付けたりその用別の物で済みをり
野村久雄
どんな物なのかを言わないことで、いろいろと想像させる。渋めだがユニークな味がある。
紙折り機がこわれて次の紙折り機の来るまですこし手折りの時間
吉村おもち
言葉を繰り返すことで、職場の無機質で慌ただしい雰囲気が読者にも感じられる。
産むという目的をもつ人たちの集う建物の温度と湿度
石田 犀
産婦人科を詠んでいるが、言葉の角度を変えることで、硬質なインパクトが生じている。