百葉箱2023年7月号 / 吉川 宏志
2023年7月号
われの知る若き父よりなほ若き父を知る人もう誰もゐぬ
仙田篤子
こういうこともあるだろうと思うが、文体の粘りで、時間の不思議さも感じさせる。
亀甲の模様くっきり浮かばせて土筆は胞子わが手にこぼす
西村清子
よく見るとまさに「亀甲の模様」がある。細部の描写が強い印象を生み出している。
いつからかわれに棲みたる耳蟬はこの身死にたるのちに飛び発つ
祐德美惠子
耳鳴りのことだろう。「耳蟬」という造語が心に残る。
向こうまで空いた洞より満開のさくらが見えるこの老桜
後藤正樹
古い桜の木にはよく洞ができる。そこからまた桜が見えるという構図が、色彩感豊かだ。
仏壇にお茶供ふるときわが腕に伯父の位牌がもたれかかり来
中林祥江
結句の動詞により、強い手触りが生じている。
満月はそろりと足を下ろしゆく夜のテントに橡の森に
三谷弘子
「そろりと」が効いていて、絵本のような味わいがある。
タクシーに乗りこみ扉閉まるとき左身に受く小さき風圧
井芹純子
細かいところに注目して歌っている。誰もが経験しているが、この風には気づかない。
幾万の眼に色をうつしつつ淡くなりゆくはなびらのいろ
岡部かずみ
多くの人に見られることで桜の色は消えてゆく、という発想がユニークである。
二億回再生されたラブソングなんかに涙が出てしまうおれ
西村鴻一
「二億回」と結句の「おれ」がいい。二億分の一に、自分が薄まってしまう感覚がある。
ジッパーの閉められる音救助ボートの中は明るい橙色になる
森 雪子
救助されるという特異な体験を詠む。視野がオレンジに覆われたところに、臨場感がある。
日常の言葉は出ぬのにカラオケは点数たかくとれて夫は笑む
西村千恵子
病気で言語障害が出たのだろう。事実だけを淡々と詠んでいるが哀歓のにじむ一首。
「浩子来る」父の手帖のあちこちに吾出没しうろついている
梅津浩子
亡き父の手帖の自分の名。「うろついている」と表現したのが面白く、寂寥感も深い。
右の眼の視力をなくした父といて片目を閉じて見上げる桜
宮脇 泉
きょうのこと忘れてしまうおさなごと花を見ている 今年の花を
田島千代
宮脇泉作品・田島千代作品共に人と桜を見る歌。花を通して、心がつながっていく感覚がある。
図書館の奥のひやりとするあたり本の匂ひの濃くなりて立つ
有澤裕紀子
図書館には確かにこんな場所がある。地味だが、空間を繊細に捉えた歌である。
カナヘビの尻尾うごめく春の陽に笊に並べた椎茸乾く
藤田幸子
「カナヘビ」と「椎茸」の組み合わせがよく、なまなまとした質感が伝わる。
人生が互いの窓に降りしきる毛玉取り器の電池を買おう
杜崎ひらく
生活を人と共にするときの感慨だろう。上の句の象徴的な表現と、下の句の具体との組み合わせが魅力的である。
エリーゼのためにが弾ける甥っ子の挑むが桃になってる日記
片岡かんの
「挑」を「桃」と書き間違えている。大人びた子だが、幼さがのぞいたように感じたのだ。