百葉箱2022年10月号 / 吉川 宏志
2022年10月号
黄のいろを過ぎし麦の穂波立てり湖東にしづかな刈り取りの音
嶋寺洋子
言葉のバランスが良く、色と音の豊潤な風景が見える。
夏至の雨みゃくみゃくと太くなりゆくを日暮のバスの車窓に眺む
高松紗都子
窓ガラスを流れる雨の筋が、「みゃくみゃく」という語によって、生命感を帯びている。
夕方のテールランプの連なりと雨、の写真のTシャツを脱ぐ
廣野翔一
雨の風景と思わせ、じつはTシャツだったという展開がおもしろい。「、」が効いている。
わたくしの死を一旦は想像せし友よいいんよそれでいいんよ
穂積みづほ
親しい友人だからこそ、自分の死を想像されることもある。下の句の響きが胸を打つ。
早苗田に水はまんまんアメンボは雲に乗ったり降りたりもして
西村清子
田の水に映る雲に、アメンボが乗っているという視点が印象的。結句にも動きがある。
死の年の録音にのこるカデンツァは自作なり指は鍵盤を吸ふ
濱松哲朗
死の直前に作ったピアノの即興部分を捉えた歌で、題材が味わい深い。指が「吸ふ」というところに、身体的な実感がある。
この橋はたしかにあなたと渡ったよしらとりの喉よぎるその下
植田裕子
記憶に残る橋をもう一度渡るときの心の揺れが、リズムよく歌われている。下の句の白い色彩も美しい。
境内のケースの中の「非核の火」はガラスに映り幾重にも見ゆ
望月淑子
「幾重にも見ゆ」に、非核の実現しない世界への複雑な思いが込められているように感じる。
撮影はOKなるもセルフィーは禁止だというアウシュビッツは
北奥宗佑
自分撮りの禁止という事実だけを詠んでいるが、深く考えさせられる。行為のエゴイズムが浮き彫りになるからだろうか。
満員の眼科の待ち合ひまるい眼もほそい眼もみな患ひてをり
若山雅代
セロテープ切られる音を三度聞く加賀の漬物包まれてゆく
杉山太郎
若山雅代作品・杉山太郎作品。これらも事実だけを捉えた歌だが、ハッとさせられる妙味がある。
京町の通りを折れてややくだるつつじあふれる牛縊坂
川端和夫
「牛縊坂」という衝撃的な地名が目に迫ってくる。
切り離しやすきやうにミシン目を入れたし夢とうつつのあはひに
瀧本倫子
夢と現実がうまく切り離せない不安感があるのだろう。上の句の発想がじつに新鮮である。
掃除機のコードの赤印みたいなかなか戻らない感情は
羊 九地
よく見る物だけれど、歌に詠まれるのは珍しい。読みにくいリズムだが、屈折した思いがここに込められているともいえる。
夕ぐれを分け合いたかった咲き終わる紫陽花は甘い焼き菓子の色
平塚さつき
夕暮れに相手と逢うことができなかったことを、魅力的な表現で歌っている。褐色になった紫陽花を、ケーキのような色と捉えているところにも独自性がある。
夜行バスでは無力です蒲鉾のように光は成形されて
鈴木黒目
夜行バスに乗ると、ただ運ばれるしかない。車内の光はたしかにカマボコ形で、物を視る眼にシャープさがある。