百葉箱

百葉箱2022年11月号 / 吉川 宏志

2022年11月号

  風よりも深くくぼめる青田のドローン噴射の農薬の霧
                          河野 正

 風圧を受けている田の様子を「凹める」という語でリアルに歌っている。やや名詞が多い感はあるが、農村の現在が見えてくる。
 
  君の背で見えぬが君は夕方の炉にしき火を起こしゐるはず
                             髙野 岬

 暖炉を覆うように作業しているので、火は見えない。映像的で、繊細な味わいのある一首。
  
  小さき子の放りし帽子を父親は自分に乗せて芝を歩めり
                           松塚みぎわ

 「自分に乗せて」がおもしろく、父と子のほほえましい散歩の様子が目に浮かぶ。
 
  けもの道ひらけて蒼き天のほらツマベニチョウ吸はれゆきたり
                             与儀典子

 鬱蒼とした道を抜けて、青空が穴のように現れたのである。そんな小さな空に、蝶が昇ってゆく。構図が美しい一首である。
 
   湖を泳ぐクジラに見えるのは飛行機を着たわたしの影だ
                            音平まど

 「飛行機を着た」という表現が大胆で、とても新鮮だ。
 
  子の歩く形のままに湯上がりの香の漂えり夜更けの部屋に
                            多田眞理子

 上の句の表現に妙味があり、子の香りの存在感が、柔らかに伝わってくる。
 
  沈黙は海の深きへ潜りゆくわれの体を包みはじめる
                         小谷栄子

 深く沈むほど音が聞こえにくくなるのを、体感的に歌う。「からだじゅう静けさまとい右の手をサザエに伸ばし握りしめたり」と並ぶことで、臨場感が増す。
 
  お別れの手話読みとれず同室となりたる人は見切りの退院
                            林 貞子

 「見切りの退院」なので、治癒は難しいのだろう。つらく、身を切られるような一場面である。
 
  サンゴ礁で擦りむいたことのある膝こぞうぶあつい赤い画集をひらく
                                 椛沢知世

 上の句の軽い痛みの記憶と、下の句の色彩との組み合わせが良く、印象的な歌になっている。
 
  朝に湧き夕べ降るごとヒグラシの裏山に鳴きひと日を仕舞ふ
                             坪井睦彦

 対句表現が効いていて、過ぎてゆく時間の哀感が漂う。
 
  わたくしが風つくる人となる夕べ水をやるとき水をうつとき
                             岩尾美加子

 対句の柔らかなリズムが快い。水遣りや打ち水を、風を作ることと捉えたのもユニーク。
 
  車窓からふり返り見る稜線を昨日登りつ今日は降りたる
                           いわこし

 これも対句。山を去るときの寂しさがこもる。助動詞の「つ」に心の揺らぎが表れている。
 
  苦手だと言はずにゴーヤ受け取りぬ記憶の淡くなりたる友の
                             石丸よしえ

 記憶力が衰えているのだろう。それを「淡く」と詠んだところに優しさがにじむ。
 
  古着屋に吊されているジーンズに海を見せむと約束をせり
                            春野あおい

 そのうちに買って、海に履いて行こうと思っているのだろう。下の句の文語が簡潔であり、爽やかな歌である。
 
  爆発を試みている石ころを手にのせてほっとさせるお仕事
                            永井貴志

 発想がファンタジー的で、とてもおもしろい。いつ暴発するか分からないものに囲まれて生きている現在の不安感を、象徴的に詠んだ歌でもあるのだろう。

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