百葉箱2015年7月号 / 吉川 宏志
2015年7月号
「沖縄を本土は分かれ」とふ人に「分かつてゐるから来た」とは言はず
小野加代
基地の反対運動に、沖縄県外から参加したときの歌であろう。現在の安倍政権の、あまりにも強圧的なやり方を見て、作者は、自分は違うと思っている。ただ、自分も本当に「分かつてゐる」と言えるのか。深く沈黙するしかない。運動に入っていくときの心の揺らぎが、簡明に鋭く歌われていて、強い印象を残す。
われよりも若いのだろう木に登るむかし語りの花咲か爺 歌川功
昔と今とでは年齢意識が違うと言われる。芭蕉は四十代で翁と称した。花咲か爺も、よく考えてみれば木に登ったりできるわけで、じつはずっと若かったのではないか。おもしろい目のつけどころだが、その背後には、身体が不如意になった、自己への哀憫が込められているのだろう。
ゆるみつつ結び菎蒻煮ゆるやうけふのわたしが椅子にをります 鮫島浩子
こんにゃくを比喩的に歌った作は多いが、「結び菎蒻」がゆるむという具体的なイメージが、倦怠感をリアルに表している。下の句の口語の用い方も、ほのぼのとユーモラス。
大勢で桜見たのはいつだっけあなたを抱いて見たこともある 山内頌子
この歌も口語のリズムに勢いがあり、過ぎた時間への愛惜がにじむ。
死にに来たこの世なれども春が来て十九枚の雨戸をあける 田巻幸生
上の句はやや観念的だが、下の句の具体的な動作や「十九枚」という数で、一首が生きてくる。言葉の組み合わせが生命感を創出することは、短歌ではしばしば起きる。
遠景をもつとも見てゐるきりんたちの脚のはざまに夕ぐれはくる 小田桐夕
繊細なキリンの存在感を巧く捉えている。優しい孤独感が、どことなく漂う一首である。