八角堂便り

短歌に辿りつくまで / 山下 洋

2011年1月号

八角堂だより 第二十五便

子どもの頃から本を読むのは好きだった。運動が苦手だったからかも知れない。メンコやビー玉もめっぽう弱かった。おまけに泣き虫だったので、負けてはいつも泣いていた記憶がある。もちろん、昔のことだから、日が暮れるまで外で遊んではいたが、本はよく読んだ。親が買ってくれた少年少女世界文学全集は繰り返し読んだ。中でもお気に入りは『フラウゾルゲ』と『日向が丘の少女』。小中学校の図書室の本は、『少年探偵団』や『ルパン』シリーズ、『ジュールベルヌ全集』など片端から読んだ。父所蔵の角川書店の昭和文学全集にも手を付けて、旧仮名に手こずりながら頁を繰った。創元推理文庫からSFの刊行が始まり、小林信也さんの好きだとおっしゃる『火星シリーズ』をはじめ、ヴォークト、アシモフ、ハインラインなどが未だに印象に残っている。

詩を読むようになったのは高校生になってからのこと。読書家の友人から、中也、朔太郎、ランボオ、ボードレールを一挙に勧められたのだ。そして、物語や小説ばかりを読んでいたときには感じなかったのだが、不思議なことに、自分で創ってみようという気がおこってきたのである。前述の友を含め、同級生何人かでガリ版刷りの〈同人誌〉(と言えばかっこいいが)を作ったのが高二のとき。最初は、散文詩ばかりを書いていた。同人誌は折々にメンバーを替えつつ、間歇的に三年間続くことになった。

終刊近くの号で、五七調の作品を初めて発表した。一連が七七七五で、それが何連か続くという形式。中也の影響かも知れない。また、そのころ、角川文庫から『意思表示』(岸上大作)と『寺山修司青春歌集』が出され、戦後の短歌にはじめて接した直後だったからかも知れない。五七のリズムを心地よく感じたことは確かである。
同人誌終刊後は、再び、読者としての読書生活に戻ることになった。暇に任せての濫読生活。うち一冊、堀田善衛の『若き日の詩人たちの肖像』の中に、実朝の一首が引かれているシーンがあった。

うば玉ややみのくらきにむら雲のやへ雲がくり雁ぞ鳴くなる

早速、本屋へ行って、岩波文庫『金槐和歌集』を購入。しばらく古典和歌関係の本になじんでいた。

故工藤大悟君に京大短歌会に誘われたのは、丁度その頃だったか。楽友会館で行われていた歌会には俳句会の面々も参加していて、メンバーは光田和伸、上野千鶴子、越川憲司(俳号は江里昭彦)など、今から考えれば超豪華な顔ぶれ。現代短歌の何たるかも知らない自分は、次の一首の前で立ち尽くしていたのだった。

目脂の父失踪し地図にわだかまるスカンディナヴィアのその霙都市
越川憲司

ページトップへ