八角堂便り

新かな旧かな(4) / 花山 多佳子

2011年3月号

八角堂便り   第二十七便

新かな旧かな(4)
花山多佳子

森岡貞香といえば旧かなが最も似合う歌人であろう。似合うというより、旧かなしか考えられないというべきか。
ところが意外にも、新かなを遣っていた時期があるのを、雑誌の初出を当っていて発見した。今「短歌現代」で「森岡貞香の秀歌」という連載を書いていて、そこでも少し触れたのだが、昭和三十二年から三十三年ころまでの、ごく短い一時期である。この間「短歌」「短歌研究」などでの発表はみな新かなになっている。

歌集でいうと第三歌集『甃』の前半に当る。『甃』は昭和三十九年に出版されているが、そこではすでに旧かなに統一されている。新かなで発表した歌も直されているのである。「後記」には表記に関することは何も触れられていない。

「朝日歌壇」が新かなに統一され、近藤芳美、高安国世、岡井隆、馬場あき子などが新かな遣いにしたのが昭和三十年、森岡はそれよりだいぶ遅い三十二年に新かな遣いを始めたわけである。しばらく試みるつもりだったのか、これからは新かなにしようと決意したのか、それは不明である。

その三十二年四月号「短歌」は「都市」というタイトルの三十二首で、一首目は

階上のブラインドに陽が當りおり街路より見て入りゆくわれは

である。歌集『甃』では冒頭から四首目にあたり、ドキュメントふうで、切れの良さの目立つ歌である。これが新かなに変えた初めての歌であるとすれば、それによって、表現を変えていこうという感じがあったようにも見える。

でも、この「都市」、実は都市での恋愛の思いのせつなく漂う一連なのである。

われの見ぬその部屋よあなたは夜ねむるふしぎになりて涙のにじむ

タイツ洗いてやさしき感じ冬沼に渡り來し白鳥思いなどして

といった、可憐なたおやかな歌が多い。旧かなに慣れた人が、ここで変えようとするか、という気がしないでもない。むろん、表記は作風とは別のことではあるが、表記の慣れということでいえば、表記を変えることは、実作の上で抵抗を生じるわけだ。

ところで同じ三十二年の「短歌研究」八月号では、森岡は「北京」三十五首を発表している。訪中団に加わって二ヶ月旅行した折りの連作である。

もつこになう労働者群より黄の埃吹き上げており崇文門あり

城壁に沿いて掘りおこり大溝のなかしずかにて人等働く

れんぎようの咲ける黄の濃さ 若き人影 城門外に出ることありて

ここでは、新かなを積極的に選んだような印象の作品群が並ぶ。『甃』では、これらも旧かなに直してあるわけだが、一度新かなで読んだあとだと、目についたりする。原作の方がきびきび感はある。しかも「れんぎよう」は旧かなだと「れんげう」なのに、これは直していない。

日本語の表記は実に悩ましい。

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