百葉箱2015年6月号 / 吉川 宏志
2015年6月号
最後まで母は母のままでいた本棚に残る聖書のように ダンバー悦子
亡くなるその時まで、尊厳を失わなかったのだろう。下の句の比喩が鮮明で、母の静謐な人柄を感じさせる。二句目は字足らずなのだが、この歌の場合は、それがかえって欠落感をもたらしている。
うたたねのあなたのうえに木の実とかへんなひかりをこぼしつづける
山名聡美
不思議な歌である。恋の一場面だと思うが、「木の実とかへんなひかり」という表現が、妙に印象的で、いたずらっぽい優しさが伝わってくる。樹になって、あなたを見ていたい、という感覚だろうか。
大学に入る書類に印を押しわれは夫の保護者になりぬ 山崎恵美子
今は、退職した後などに大学に入り直す人も増えている(「塔」にもいます)。「夫の保護者」になる、という体験が新鮮だったようで、一首全体に嬉しさがこもっている。暮らしの中で、夫婦関係の変化してゆくおもしろさ。
もう二度とここへ来るなと念押され教室を出て次の風掴む 吉澤和人
卒業する学生の歌である。上の句は先生の言葉だろうか。過去を懐かしむな、未来に向かって生きろ、という願いを、わざと荒っぽい言葉で言ったのだと思う。結句の「次の風掴む」に、この瞬間しか歌えない勢いがあって、胸を打たれる。
わたくしはあなたの補色かなしみを引き出すための霞草添ふ 竹井佐知子
「補色」とは、赤に対する緑のように、たがいに引き立て合う色のこと。「あなた」の悲しみを、自分が引き立てているという意識があるのだろう。「霞草」も、赤い花などを目立たせるために用いられる。上の句と下の句が、やや繰り返しになっている憾みはあるが、独自の感性があらわれていて、大変魅力的であった。