短歌時評

肉筆の「肉」を感じさせる / 大森 静佳

2015年6月号

 一首の歌を読んだとき、このひとは一体何者なんだろうと強烈に感じることがある。リアルな肉体を持った誰かがそこにいる、という感覚だ。例えば毛筆の字を見たとき、掠れや墨の溜まりに書家の手(肉体)を感じてしまうように、私たちは言葉の息遣いに作者の肉体を感じ取る。昨年の「塔」八月号のインタビューで吉川宏志が、他の人にはできない言葉の使い方で書かれた歌に、読者は一人の人間の存在感を見出すと話していたことも鮮やかに思い出される。
 岡井隆の最新歌集『銀色の馬の鬣(たてがみ)』と花山周子の第二歌集『風とマルス』は、いわば「肉筆」性の濃い歌集だという点で通底する。さりげない日常を描きながらも、作者のなまなましい体臭を強く感じさせるのだ。 
  
  消しゴムを挟む右手の拇指示指(ぼししし)のほのかにあかし朝光(あさかげ)の中
                                   岡井 隆
  
  雪の好きな恵里子とさうでもないぼくと或るしづかなる時を分け合ふ     同
  
 一首目はただ消しゴムを使っているだけの場面で何も特別なことはないのだけれど、どこか時間が止まったような深さがあっていい歌だ。「拇指示指(ぼししし)」の視覚的、韻律的インパクトに加え、下句のA音が鮮やか。一首の佇まいは寡黙だが、その背後に精神的な豊かさが隠されている。二首目も好きな歌。「さうでもない」という淡く澄んだ口語的な意識で、雪の好きな妻と雪そのものに向き合っている。歌集全体では、老いを真正面から受け止めつつ、過去や書物の世界へ潜ってゆく歌にも迫真性があった。
 「アナホリッシュ國文學」第七号(特集「日記の力」)では、先頃第六回鮎川信夫賞を受賞した阿部嘉昭が「方法論としての日録—岡井隆のメトニミー原理について」を書いている。これは暗喩と換喩の違いを分析しつつ、後期岡井の「日録」という方法を評価した文章である。発話者の心の外部に「神の視点」を置いてイメージを飛躍させる暗喩に対して、換喩では、発話者に内在する視点からイメージをずらしてゆく。そのため、暗喩派の塚本邦雄には肉感がなく、換喩派の岡井には「身体の温み」があると指摘するくだりが面白い。
 ただ、『銀色の馬の鬣』での岡井は、従来の重層的な喩法からは少し離れている。一首一首にはやはり身体の温かさを感じるが、それは換喩ではなく岡井ならではの文語的な色気のある口語に由来するものなのだろう。
  
  わが心、漬物石のごとくして君から一歩も動かざるかな       花山周子
  
  手の甲に蚊をつぶすとき蚊の眼(まなこ)つぶっただろう白い感触      同
  
 一首目は初句の大胆さ、恋愛のさなか自分の心を「漬物石」に喩えてしまう感覚、結句「かな」の生真面目さなど、捨て身の迫力だ。二首目、二句まではくっきりと自分が主体だが、その後想像力は「蚊」のなかに入り込み、結句「白い感触」には自分の感覚と「蚊」の感覚が混ざってしまったような不気味さがある。作者像ももちろん個性的だが、やはり文体や感覚のねじれが『風とマルス』になまなましい肉体を与えているのだ。
 現代は生活が画一的になってしまったためにその人独自の濃い「人間」を歌いにくい時代だとも言われる。そんななか、岡井や花山の歌は日録的でありながら強靭な個性がある。肉感がある。なかなか言語化しがたい部分だが、こういう魅力は大切なものだろう。
  
  再読の『ネフスキイ』否、最初から再読だったと思えり二月     花山周子
  
 こんな歌があるのも楽しい。『ネフスキイ』は二〇〇八年に出た岡井隆の歌集。初めて読んだ感じがしないのも、おそらく岡井的「身体の温み」が関係しているのだろう。

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