八角堂便り

上田三四二のこと / 黒住 嘉輝

2012年6月号

八角堂便り  第四十二便

上田三四二のこと  
黒住 嘉輝 

 三月、山城歌会の観梅散策吟行会にはじめて参加した。異常気象で、今年の春は寒く、梅も桜も遅れがちだと言われていた。天候も怪しかったのだが、集合場所のJR山城青谷駅へ向かった。当日の参加者は十一人。京都南病院へ着いたとたん、上田三四二を訪ねて来た遠い日のことが蘇った。正確な日時も、その日何を話し合ったのかも思い出せないのだが、彼を訪ねてここへ来たことがある、という記憶だけが生々しくあるのだった。
 眼前に聳える白いコンクリートではなく、古びた木造の建物であったことも。そして、彼を訪ねるきっかけとなった京都歌人協会での出会いのことも・・・。例会の他、何の催しだったのか、彼が話し終ったあとの壇上で、歌評か何かをしゃべった記憶が確かにあるのだ。

 結核医であった彼は、一九五四年「短歌研究」の新人評論に『異質への情熱』が入選している。六一年には『斎藤茂吉論』で第四回群像新人文学賞(評論部門)を受賞、あわせて『逆縁』が小説部門の最優秀作となっている。そして、これがきっかけであったかどうかは定かではないが、京都を去って東京へ移って行った。その後も、種々のジャンルの沢山の賞を取ったことは知る人も多いだろう。

 また彼は、一九八五年七月の「塔」の高安国世追悼号に『兄事四十年』という一文を寄せている。その書き出しはこうである。「高安さん、とこころやすく呼んできたが、高安さんは私にとって高安先生だった。(中略)歌をはじめて何年かのあいだ、京都歌人協会の月例歌会に欠かさず出席したのは、高安さんと鈴江幸太郎氏の批評が聞けたからであった。」そして、この三頁あまりの追悼文の最後はこう結ばれている。「亡くなられたとき、私は入院していた。退院して年を越え、ようやく机に向ってものを書くまでになったいま、師事するにちかく兄事してきた四十年を顧みて感謝の思いを深くし、遠い人になられた淋しさをあらたにしている。」

 上田三四二には、青谷梅林を詠んだ作品が百首以上もあるという。その中の一首「満ちみちて梅咲ける野の見えわたる高丘は吹く風が匂いつ」が青谷駅に歌碑となっている。

  ちる花はかずかぎりなしことごとく光をひきて谷にゆくかも
  瀧の水は空のくぼみにあらはれて空引き下ろしざまに落下す
  医の業を楽しともなく山裾の療舎にわかき十年すぎにき
  歌ありてわれの一生はたのしきを生のなかばは医にすぎたりき

 最後に『現代うた景色』の中に河野裕子が引いているうたを載せてこの稿を閉じる。

  三十年わが名よぶ母の声ありきそのこゑきかぬのちの二十年

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