連作「塩と契約」をめぐって / 大森 静佳
2015年5月号
「現代短歌」四月号の特集「短歌と人間」の対談(阿木津英×松村正直)はかなり踏み込んでいて面白い。この対談で二人は特に若い世代の歌に疑問を投げかけているのだが、私はその発言の根幹にある短歌観そのものには深く頷きながら読んだ。
短歌はドキュメンタリーの具ではない。もう少し〈創造者〉としての生の活動が作品に映って出て来ないと。
この阿木津の発言は、若い世代からも強い共感を得るものだろう。その一首をその人に歌わせた何か不思議に熱い力が、滲み出ていなければいけないのだ。欲を言えば、この対談には具体的な歌の引用がほとんどないのが残念だった。上の世代のどんな歌に阿木津の言うところの言葉の「アウラ」や「創作者としての私」が出ているのかが知りたい。
「世代の断絶」と言うが、実際には大きな意味での短歌観にはそれほど溝はない。ズレがあるとしたら一首一首の読みと評価にある。
「短歌」四月号では特集「次代を担う20代歌人の歌」が組まれた。若手の七首に岡井隆、馬場あき子らベテランの世代が批評を寄せているのだが、歌の読み方が自分とはかなり違うので驚いた。
水仙と盗聴、わたしが傾くとわたしを巡るわずかなる水
服部真里子「塩と契約」
例えばこの歌、評者の小池光は「まったく手が出ない」と言うがそれほど難解とは思えない。水仙を見ようと身を屈め、盗み聞くためにドアに耳を寄せる。そんなふうに自分が傾くとき、体内で揺らぐ水分の存在。自愛とまではいかずとも、ちょっと厳かな気分が伝わる。初句二句の唐突なイメージの並立がやや強引だが、下句の身体感覚がそれを支える。
白木蓮(はくれん)に紙飛行機のたましいがゆっくり帰ってくる夕まぐれ
この歌を服部の七首のなかで唯一肯定する小池は、「紙飛行機をとばしたらゆっくり空を回って、ハクモクレンの花にひっかかったのだろう」と読む。でも、「たましい」と言うからには紙飛行機自体ではなく、やはり目に見えない魂だけが戻ってきたのではないか。白い折り紙に似た白木蓮は紙飛行機の故郷にふさわしい。一生は何かを失うことの連続だけれど、実は私たちの気づかないうちに魂だけは巡り続けているのかもしれない。
手のように白い梨むき逃れゆくものがみな夜逃れる不思議
「手はそんなに白くないし、まして梨の実はそんなに白くない。三句以降は意味不明である」と小池は書くが、普遍化の効いたいい歌だと思う。「夜逃げ」などと言うように、逃げるという行為は夜や闇のイメージと結びつきやすい。感情や記憶が心から逃げてゆくのも夜。梨の複雑な白さは手の白さと確かに響き合う。その梨を剥きながら、自分から漏れてゆく感情を寂しく思いつめている。
服部は連作全体で世界の静かな循環を見つめている。私のなかを巡るもの、私の外を巡るもの。少しずつ何かが失われ、逃れてゆく痛みがじんわり沁みてくる。
こうした精神の火照りや直観のきらめきは、評者には届かなかった。どうしてだろう。もちろん、小池はあえて歌人・小池光としての批評を貫き、実景と日常に立脚した解釈をしているのだろう。でも、それにしても評価以前の部分に大きな溝がある。
小池は批評を「もう少し作者と読者の間に共有するものがある歌であってほしい」と締めくくる。その「共有するもの」の軸の統一が、意外なほど難しくなっているのかもしれない。それならばなおさら、まずは一首への自分なりの読みを他者に届けようとする執念が求められるだろう。