八角堂便り

白い部屋のことなど / 吉川 宏志

2013年9月号

八角堂だより      第五十七便

 数年前の夏の全国大会のあと、河野裕子さんと永田紅さんと、なぜか怪談話をしたことがあった(河野さんは意外にそうした怖い話が好きな人だった)。
 
 たしか紅さんが、子どものころ、夜更けに目が覚めてトイレに行ったとき、あるはずのない白い部屋が見えた、という話をされて、ゾッとしてしまった。じつは私も、幼いころに同じような経験をしたことがあったからである。いつものように襖を開けると、白い布をはりめぐらしたようになっていた。なぜか見てはいけないものを見たような気がして、そのまま閉めてしまった。もちろん翌朝に目を覚ますと、そこはいつもどおりの部屋になっていたのである。
 
 怖さ、という感覚は不思議なものである。私はホラー映画が好きで、けっこう観るのだが、あれは視覚的にすごくリアルに作ってあるけれども、慣れてくればそんなに恐ろしくはない。不気味だなあ、とか、ショッキングだなあ、とは思うのだけれど、しょせんは作り物だと感じているので、観終ったあとは、すぐに怖さは消えてしまう。後に引き摺らない。だから娯楽として楽しめる。
 
 ところが、身近な誰かが体験した些細な幽霊話などのほうが、かえっていつまでも心のなかに冷気が残るような気がする。ぽっかり開いた白い部屋のように。
 
 どうも、リアルというものには、二つの種類があるようだ。一つは、作り物をいかにも本当のように見せるための技巧としてのリアルである。それは視覚的な精密さを追求する方向性をもつ。
もう一つは、すぐそばの人から聞いたような、語りのなまなましさのリアルである。それは語り手の信頼性に比例する傾向がある。だから「友達の友達」に聞いた話より、本人から直接聞いたほうが、ずっと身に迫ってくる感がある。
 
 分かりやすく分類すれば、〈映像的なリアル〉と〈語り口のリアル〉が存在すると言っていいのかもしれない。短歌においても、よく「リアル」ということが論議されるのだけれど、この二つのリアルが、しばしば混ざり合っているように思う。もちろん、それを厳密に区分することはできないのだろう。ただ、分量の短さのために映像的な描写に限界がある短歌では、〈語り口のリアル〉がすごく重要なことはわかる。
 
  駆除をせし証拠役所に出すために猟師は鹿の耳を切り取る   俣野右内
 
 これは最近、京都新聞で選んだ歌。作者はまったく知らない人である。事実かどうかも私は知らないのだが、読んだ瞬間、ざわりとした恐ろしさを感じた。出来事だけを単簡に述べた調子に、ある種の真実味をおぼえたのであった。ふとすぐ近くで話しているのを聞いたような、素肌に触れる感じを、こうした歌から受けることがある。

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