今、「人間」を差し出す苦しさ / 大森 静佳
2014年10月号
ここのところ「短歌」の連載「馬場あき子自伝 表現との格闘」を楽しみに読んでいるが、大詰めを迎えた九月号も刺激的だった。馬場は、特にここ数年の若手の歌について、知的な発見やアイディアはあるけれど「人間」や「心」が足りないと指摘し、このままでは次第に歌に署名性がなくなってゆき、かつての「江戸川柳」のような「平成アイディア短歌」という流れに収束してもおかしくないと悲観する。それに対し聞き手の穂村弘は、画一化された現代の日常において「人間」を差し出しても、もはやそこには近代歌人のような個性がないため価値を見出しにくいのではと苦々しく反論する。アイディア先行の歌への危惧はかなり以前からなされてきたが、そもそもアイディアと心の境界は混沌とし、また「人間」とは何かという問いも永久に曖昧であるため、不毛な議論に終わりやすい。
では、現代において「人間」を差し出すにはどのような方向があり得るのか。
「短歌研究」九月号では、第五十七回短歌研究新人賞が発表された。受賞作を含めた上位二十四篇を読むと、例年に比べ主題意識が濃い連作が多いのが印象的であった。
傘を盗まれても性善説信ず父親のような雨に打たれて
ネクタイは締めるものではなく解くものだと言いし父の横顔
石井僚一の受賞作「父親のような雨に打たれて」も、父への挽歌という明確な主題を持つ。石井は北海道大学短歌会所属の二十五歳。父の死を胸に自らの生き方を再確認する一首目では、その死を雨に濡れた全身で受け止めようとする悲壮な比喩がいい。二首目に代表されるように、石井の描く父子の関係はやや古風なものだが、その親子像が現代のハードボイルドな日常から捉え直されている点が新鮮だ。選考会でも指摘されている通り韻律や表現の乱暴さはあるにせよ、混沌とした勢いとキャラクターの人間臭さが何とも言えない味になっている。偶然にも、ここに一つ、もっと「人間」を読みたいと語る馬場の期待に応えるかのような作品が出て来たと言えよう。
一方、今回の候補の中で私が注目したのは、岡野大嗣「選択と削除」と山本まとも「デジャ毛」という、現代社会をアイロニカルに描いた二作品であった。
朝焼けが始発電車とその中の2着目タダのわたしをつつむ
レジ上の四分割のモニターのどこにも僕がいなくて不安
岡野の歌には、見えない手によって管理される現代人の日々が痛烈に炙り出されている。
部屋にある三個の時計とその倍の時計機能がついているもの
山本は、様々なモノの存在や役割に敏感に反応し、乾いた文体で事実の奥に迫る。
現代という時代に「人間」がどう存在し得るかを執拗に突き詰めたこれらの歌に共感する一方、その無臭な、匿名的な印象がかすかに気にかかる。その匿名性の根は、穂村の言うように画一化された社会を詠んでいること、一首が名詞中心であること、現代人に共通の感覚を言語化していることなどが考えられる。
岡野や山本の歌は、アイディアではなく確かに「人間」を描こうとしているのだが、結果的にはやはり匿名性を背負いがちになる。これは家族への個の直情を武器にする石井とは別の方向であり、彼らが描く「人間」は従来の短歌が差し出していた「人間」とは異質のものなのだ。短歌における「人間」を、もっと柔らかく捉え直したい。その上で、作品が揃いがちになる閉塞感をどう突破してゆくか。これは、口語の問題とも絡めて掘り下げてゆくべき苦しさだと思う。