短歌時評

心の経験はどこまで行けるのか / 大森 静佳

2014年12月号

 この一年を振り返ると、短歌が根っこから揺さぶられた年だったという感がある。レトリック論などの比較的細かい議論よりも、スケールの大きい原論的な問題が多く取沙汰された。それは、印象に残った特集や話題を挙げてみても明らかだ。佐村河内守氏の代作問題を受けた企画「感動はどこにあるのか―作品と作者と〈物語〉」(「短歌」四月号)や短歌研究新人賞受賞作をめぐる虚構問題、また、「短歌研究」十一月号の特集「短歌の〈わたくし〉を考える」など、短歌が短歌であることの本質に迫るような議論が多かったように思う。

 
 東日本大震災と原発事故の後、「言葉の無力さ」ということが盛んに言われた。その是非は措くとしても、言葉とは何なのか、短歌とは何なのかという根源的な問題を改めて考え直す契機になった。精神科医で批評家の斎藤環は著書『文学の断層』のなかで、かつて私小説が主流であった文壇に、関東大震災の翌年横光利一ら新感覚派やプロレタリア文学が登場し、また阪神・淡路大震災後の作家たち(阿部和重など)が完全なるファンタジー空間を離れ、現実と虚構空間の多重的な世界を好むようになったという変容を指摘している。つまり、あまりにも巨大な震災の以前と以後では、「何がリアルか」という感覚が位相的にずらされてしまう可能性があるということだ。

 
 おそらく今、私たちも言葉と事実、言葉とリアリティの関係に敏感になっている。短歌の〈私〉や物語、虚構に関する議論が噴出している現状は、震災の衝撃と地続きなのではないか。先の二つの大震災とは違って、今回の震災は原発事故という出口の見えない危機感を引きずっているため、事態はより複雑だとも言えるだろう。

 
  遺影にて初めて父と目があったような気がする ここで初めて

 
 短歌研究新人賞を受賞した石井僚一の「父親のような雨に打たれて」は、「塔」十月号の時評でも触れたように父親の死をテーマとした現代的で骨太な連作だったが、その後「短歌研究」十月号に、選考委員として石井を推した加藤治郎による特別論考「虚構の議論へ―第五十七回短歌研究新人賞受賞作に寄せて」が掲載されて事態は急転した。加藤によれば、石井は新聞記事のなかで、父親は存命中であり「死のまぎわの祖父をみとる父の姿と、自分自身の父への思いを重ねた」と述べている。亡くなったのは、実は父ではなく祖父だったのだ。対して加藤は、「……虚構の動機が分からないのである。父の死とした方がドラマチックであるという効果は否定できないが、それは別の問題を引き起こす。演出のための虚構である。肉親の死をそのように扱うのは余りに軽い」と疑問を投げかけた。選考委員ならではの苦しさの滲む文章だが、注目すべきは、父の死が虚構であったこと自体よりも、加藤の問題提起以降、虚構の議論がこれほどまでに盛り上がり長期的に論じられているというある意味異様な事態ではないだろうか。すでに黒瀬珂瀾(「短歌」十一月号時評)や石川美南(「現代短歌」十一月号時評)、斉藤斎藤(「短歌人」十一月号時評)らが複数の観点から大いに掘り下げている。また、「短歌研究」十一月号には石井による加藤への応答が寄稿されたが、この文章はやや素朴すぎて議論の深まる余地がないように感じた。

 
 「歌壇」八月号の特集「短歌の空想力―フィクションとファンタジーの魅力」で斉藤斎藤が明言している通り、「現代短歌の『事実』とは、読者から見た『事実らしさ』である」。先述の時評のなかで石川美南は、石井が言葉の上で父を死なせた内的必然性として「現実に目の当たりにした祖父と父との関係を自分のものとして描くことで、何十年後かに繰り返されるかもしれない父との別れを生々しく想像し、父子関係を新たな角度から見つめ直そうとした」として、そこに「父子関係に対するオブセッションの存在」を示唆する。それは、言葉で未来のもう一人の自分を先取りしてしまう痛みとも言える。私たちは事実のなかでのみ生きているわけではない。日々いろいろな悲しみや喜びを想像し、予感し、怖れ、意識し、ときには夢に見る。その一切をふくむ混沌とした意識の世界が現実の私であり、決して実際に起きたことだけが私なのではない。だから、先月号の時評で私が述べた「人間」的な魅力というこの連作への意見は、今も変わらない。大切なのは、事実として経験したかではなく、心の経験が切実な「事実らしさ」として歌に反映されているかどうかだ。

 
 かつて吉川宏志は「短歌研究」二〇〇七年十月号の特集「短歌で許される『創作』の範囲とは」に寄せた「作者の信頼性とフィクション」において、「一首の歌を支えているのは、作者への信頼感(過去にその作者が生み出してきた作品や発言などがつくりだす存在感)なのではないか」と書いた。今回のケースでは、作品が新人賞という「作者の信頼性」がゼロの場に出された点、祖父←父という方向の情念を連作中盤から自身の内部に引き継いで父←自分の思いへ移していく感情的営みは「虚構」よりもいわゆる「成り変わり」に近いのではという点、言葉の上で死んだのが友人知人ではなく肉親であった点など、事情が入り組んでいる。それを単純に「虚構」問題のテキストとして扱うのは、ちょっと無理があるのでないか。虚構―事実という軸と言葉の力の強―弱という軸を別々に論じるのは生産的でないし、やはりその都度作品に即して考えていくべきだろう。短歌が文学であるためには、この父の「死」が石井僚一という歌人にとってどのような意味を持つのかを探る方向に、やがては舵を切りたい。

 
 石井が言葉によって父の死を予感し苦しんだ「心の経験」を補強しているのが、以下のような歌群である。

 
  火葬炉の釦は硬し性交の後(のち)に生まるる我等を思う
  神は糞(くそ)を拭かない公衆トイレから喘ぐように歌わるる讃美歌
  雨上がる竹藪のなかエロ本のごと汚れたる聖書ありけり
  私の姉はAV女優だそれも売れっ子だ だからあのカレーの辛さはMAXにする
                    「短歌研究」十一月号

 
 一~三首目は受賞作から引いた。一首目は死の手触りとして火葬炉の釦の硬さを確認し、人がみな両親の性交によって生まれてくるという普通なら目を背けたくなる禍々しい真実へと飛ぶ。性愛と生殖、生殖と人間存在というこのありふれた落差への怒り。父の死は、自分をこの世に成した性(性交)の消滅でもある。この歌は案外、受賞作のなかで大切な歌ではないだろうか。二首目と三首目は、「公衆トイレ」と「讃美歌」、「エロ本」と「聖書」という対比がわかりやすすぎて奥行きはないが、作者がこの世界をどのように見ているかが伝わる。いかなる美しい聖性も、また尊い家族という連帯も、この世では性や人間の罪によってあらかじめ汚されている。「性」と「聖」が二重写しになったこの世界への怒りが、石井の根底にはある。五首目は姉の歌だが、これもまた虚構の匂いが強い。大幅に字余りしながら叫ぶ文体とカレーを超辛口にするという凶暴さに、石井の資質である怒りが発揮されている。

 
 このように見てみると、まだそれほど既発表作は多くないものの、石井には性と聖(血縁関係を含む)のカオスと化した現代社会への怒りが大きなテーマとしてあることがわかる。それを踏まえて「父親のような雨に打たれて」を読むと、決して「演出」などではない味わいがあるように思うがどうだろうか。今後に注目したい。

 
   *

 
  つきあかり未満のきみの光源に手をいれて呼吸がちかくなる
               藤本玲未『オーロラのお針子』
  春雷を口にふくんで上に乗りふたり淋しい電車になるの

  ひとりひとつしんと真白き額もつあれは湖へゆく人の群れ
               服部真里子『行け広野へと』
  少しずつ角度違えて立っている三博士もう春が来ている

 
 今年も興味深い歌集が多く出た。まず注目したのは書肆侃侃房の「新鋭短歌シリーズ」第Ⅱ期として刊行された『オーロラのお針子』。歌集後半、相聞歌の自在な喩的表現に惹かれた。一首目、抱擁の場面を独特に捉えている。「つきあかり未満」と拙く言いながら逆説的に月明かりを「きみ」の身体に呼び込み、主語のねじれによって結句で浮遊感が出るところも面白い。二首目、「上に乗り」「ふたり淋しい電車になるの」から性愛の場面と読んだ。下句の自己愛的な甘さは好みが分かれるところだが、「春雷」を口にふくむという瑞々しい喩がいい。春雷はたぶん冷たくてほろ苦く、性行為の微妙な哀切さと響き合う。もう一冊、『行け広野へと』の作者の服部は昨年の歌壇賞を受賞した「未来」の新鋭である。一首目、巡礼のような雰囲気だろうか。額から湖に吸い寄せられる人々。人間の感情にずかずか踏み込むのではなく、あくまで人とこの世の在り方に対して敬虔な愛情深い態度をとり続ける。その強い意志に打たれる。二首目は、新約聖書の東方の三博士が描かれた絵画などを見つめる場面か。「少しずつ角度違えて立っている」という気づきがはるかな物語を膨らませ、「もう春が来ている」の弾むような飛躍も心地いい。服部の魅力が眼前のものからその奥の時空を超えた世界へ飛ぶ力強さなのは言うまでもないが、「三博士/もう」の句割れのような韻律の魅力も印象深い。

 
 感覚の冴えと言葉の大胆さを追求する彼女たちとは重なりながらも少し違う、思索する短歌という方向にも収穫があった。

 
  しらじらと無瑕疵の月は照りており関係の根は底へ伸びていて
               嵯峨直樹『半地下』
  温かな呼気の湿りで自らを慰めているマスクの内に

  右端より一人おいてと記されし一人のことをしばし思うも
               松村正直『午前3時を過ぎて』
  泣くひとの方が思いが深いとは思わざれどもわが身は泣けず

 
 嵯峨直樹の第二歌集は現代人の関係性の在処を泥臭く模索する異色の一冊。一首目、無瑕疵の月の美しさと、地上でどうしようもなく伸び絡まる「関係の根」の悲哀を対置している。二首目のように肉体の温みで孤独感を照らす歌も独自。松村正直の第三歌集は、労働や文学、家族など様々な側面から生きる日々を思索する。思索と言っても理屈っぽくはならず、一首に必ず鮮やかな視点があるのが魅力。ある屈託と逡巡をもって何かを反芻する歌が特に印象的だった。

 
  紙飛行機のような軽さに燕落つふるさとの窓すべて閉ざされ
               齋藤芳生『湖水の南』
  祖父よ眼を閉じてもよいか烈風に煽られて針のように雪来る

  自らの本焼かるるを見にゆきてケストナーつくづくと見しやその火を
               大口玲子「歌壇」三月号
  絶望に慣れつつ寒き窓に寄り思はざる月の若さを仰ぐ

 
 震災詠や社会詠では、震災直後と比べて次第に歌が重層的になってきていることに注目した。齋藤の第二歌集は、故郷福島の景に亡くなった祖父や老いた祖母への思い、さらにはかつて働いていたアブダビの地への愛惜も重なって印象深い。大口の連作「寒気殺気」は今年から「歌壇」で始まった連載・五十首詠から。他に吉川宏志や水原紫苑も参加するこの五十首詠は毎回とても読み応えがある。一首目は詞書に「一九三三年五月十日 ナチス・ドイツによる焚書」とある。現代日本とナチス・ドイツを重ね、自身の信仰とナチスに抵抗した牧師の信仰を重ねる。また、二首目のような自然界との交流も混ざり合い、五十首に忘れがたい重さが加わっている。

 
   *

 
  死にてなほ死よりも遠くゆくごとく蝶吹かれをり春雪のうへ
               小島ゆかり『泥と青葉』
  靴を買はん父のねむりや落蟬の腹にひびかぬしづかなる靴を

  びしよびしよのこゑ水際(みぎは)よりのぼり来ればからだを貸せり夢のからだを
               梶原さい子『リアス/椿』
  何もせず傍らにをり何もせずわたしはあなたの孫 秋の水

 
 今年の歌集で最も心に残った歌集はと言うと、私の場合この二冊になる。温みを失わない言葉と腹の底から出てきたような修辞に歌の力を見た。二冊とも普遍的なテーマ「死」を力強く引き受けるが、この死をどう描き得るかというのはやはり永遠の課題なのだろう。

 
 と言うのも、私は「塔」三月号の短歌時評「記憶と感情の挽歌」で、堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』について〈記憶より記録に残っていきたいと笑って投げる冬の薄を〉などを引きながら、「薄れてゆく感情や記憶への悼みに満ちて、一首一首が鋭く挽歌的である」と評したが、これに対していくつかの反論があってありがたかったのだ。

 
 朝井さとるは「塔」五月号誌面時評で、私の読みを一応肯定した上で「言わば、死に対する生きた捉え方の欠如と言ったものを感じる。命は死を拒み、苦しみ、あとに醜い骸を残す。『死』とはまた、濫用されやすいキーワードでもある。挽歌、悼みといった表現以外に、儚い一瞬一瞬に対する痛みを掬いあげる概念はないのか?」と疑問を呈している。また、染野太朗も「NHK短歌」六月号の短歌時評で、堂園の歌のキーワードが「死」であることには肯った上で、「この歌集を『死』という語をもって語れば語るほど、僕の知っている生臭い『死』が、むしろ『死』ではないように思えてくる」と苦悩する。

 
 朝井と染野の発言は作り手側ではなく読者側に再考を促すものだが、おそらく今年たびたび上の世代から投げかけられた「若手の歌には〈人間〉がない」という問題意識とどこかで繋がっている。特に、松本典子「短歌のいまを分断するもの」(「短歌往来」七月号)は、若手が一首の普遍性や観念性を志向し〈私〉を希薄化させている事態を共通の時代認識が失われた現代の時代性と関連づけて興味深い。この見方は、これも何度か言及された「若手は助動詞を駆使しない」という文体レベルの文脈にも通じるものがあるかもしれない。

 
 読者の側からすると、確かに堂園らの歌から受け取ったものをどう言葉にするかは難しい問題だ。批評の言葉が追いつかない。私は「死」や「挽歌」という語で論じたつもりになっていたが、改めて悩まされた。「死」はいろいろなニュアンスを持ち、あまりに一般的すぎるキーワードだからだ。ただ、私は小島や梶原の歌における生身の死にも、堂園の詩的に昇華された死にもどちらにも心を動かされた。かつて前衛短歌も「人間」の薄さこそが前衛の限界だという批判のされ方をしたが、近代短歌から引き継いだ「人間」や「生身」という物差しを現代の誰彼に一律に当てるのは、たぶん危うい。どちらがより「正しい死」かということではなく、同時代のさまざまな歌から自分にとっての「死」の姿を思索すればいいのではないだろうか。

 
 もう触れる余裕がなくなったが、文学フリマの短歌ブースの盛況、「大阪短歌チョップ」などの新しいイベント、学生短歌会の興隆など、短歌をめぐる状況はますます多様化している。原論的な議論が流行る昨今だが、本質的な議論と作品の丁寧な読みを合流させて、拡散する現在に少しでも輪郭を与えていく批評、歌壇に流通する批評ワードに囚われない批評がひしひしと求められている。

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