短歌時評

筆数 / 荻原 伸

2011年2月号

 入門書を読むのが好きだ。それは、それぞれの著者の短歌への態度を垣間見ることができるように思うからだ。坂井修一『ここからはじめる短歌入門』(角川選書)は、浜崎あゆみからロマン・ロランまで古今東西の名文や名歌を引きながら「熟年の恋」「歌集を編む」「ITと進歩史観」など、入門者に限らず短歌をやる上での転ばぬ先の杖のごとく、かなり幅広く凝縮された内容になっている。

 栗木京子『短歌をつくろう』(岩波ジュニア新書)は、中高生に向けて、短歌を詠む/読むことがどれほど豊かな営みであるか、歌の本質的なすばらしさを多面的に語りつつ具体的な歌や練習問題が実作へのヒントとして配されていて、歌を詠みたくなる。加えて、時にクールに映る栗木のひとかたならぬ短歌への信頼感や初学者としての若人を誘う愛情が感じられるのがとても気持ちよい。

  イカの一片つるつるとして挟みがたし歌つくるときのはじめに似たる

 「つくづく短歌は、むずかしい。いまさら嘆いてもはじまらない。気が付けば四十年ばかりも、連れ添って過ぎてきた(後書)」。小池光『山鳩集』(砂子屋書房)は第八歌集。二〇〇四年からの六年間の歌が収録されている。三十一年間勤めた高校を退職し、また、身辺にはいろいろと変化が起きているようである。

  やはくして粉とぶチョーク 硬くして粉とばぬチョーク その日その日に

 「やはくして」という言葉にまず惹かれるのだが、それはそれとして。やわらかいチョークはやや太めで黒板に書くと抵抗が割合あって、書き終わると指に粉がついている。間違えて消す時などはぱあーっと粉がとぶ。それに対して、硬いチョークはちょっと細くて黒板に書くときにカツカツ音が出る。粉が手につかないかわりにカツカツ書いているとよく折れる。教員にもチョークの好みというか流儀があってそれぞれに選んでいる。「その日その日に」にはそういう教員らしい強い思い入れみたいなものがさっと削がれている自分への認識がある。力が抜けている、感じである。
  
  お茶のんでだしぬけに妻が言ひしこと「勝つてふてくされる野茂がかはいい」

  派手なことなにも言はずにただやめた野茂をおもへり扇風機の前に

 野茂を詠んだ歌は集中にこれきりである。うれしいことや悔しいことを殊更に開示することのない野茂。その野茂への視線と力の抜けた小池の作風はどこか近しく思える。

  喜界島の九年母(くねんぼ)といふくだものが夜のつくゑのうへにありける

  ザンジバルの島にしづかなる砲台あり日もすがら夜もすがら海に向かひて

 「九年母」の一連の冒頭二首である。一首めは「喜界島の九年母」という語感あるいは言葉の圧倒的な存在感に焦点化された歌。下の句「夜のつくゑのうへにありける」はそれを物体の存在感として手渡している。二首めは「ザンジバル」。これもまたこの言葉の存在感によりつつ、これを際立たせる歌のつくりである。「日もすがら夜もすがら」などまことに力が抜けていて巧みである。

 ここに挙げた六首のどれもが、たとえて言えば筆数がきわめて少ない感じがする。手数が少ないと言ってもいい。すべてを歌にするという態度ではなく、出来事や物語に頼りすぎるわけでもなく、思わせぶりなこともない。ただ余計なものを捨ててシンプルに、選び抜いた物や事を少ない筆数で描いている。これは軽さやずらしや枯れた味わいなどとは少し趣が違う。余分な力の抜けたシンプルな言葉で構成された歌だからこそくっきりとした存在感という力を放っている。

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